【解説】昨日に続いて、『モーニング・スター』掲載の記事を翻訳します。英国人の筆者のエマさんは売買春のサバイバーです。彼女もまた、売買春の中にいる時は、自分が受けていることは搾取であり虐待であることを認識できていなかったことを証言しています。
エマ
『モーニング・スター』2025年3月8日
私のように売買春から足を洗った人にとって、その経験や世界について語ることは難しい。しかし、実体験は重要である。そして、売買春に対して効果的な政策を社会として採用しようとするのであれば、業界を去った人々の声を真剣に受け止め、私たちの言うことに耳を傾けることが重要だ。
そこで私は座り、一息つき、身構え、売買春とポルノグラフィの実体験について書く準備をする。私は、気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと深呼吸を数回する。売買春がもたらす影響は、日々、大きな課題となり得る。トラウマ、依存症、自殺、自傷行為、うつ病、不安、借金、フラッシュバック、自己嫌悪などを防ぐ最善の方法のひとつは、売春を絶対に始めないことだ。私は日々、これらの問題と向き合い続けなければならない。
たとえば、OnlyFansで身体を売っている女性たちが、これは素晴らしいことだと自分に言い聞かせることは珍しくない。セックスワークはワークだと――今のところ――自分に言い聞かせているのだ。売春婦だった私には、「セックスは仕事」と主張する女性たちがいる理由が理解できる。私は定期的に、自分の体を売る「エンパワーメントされた」女性であると公言していた。
しかし、実際にはそれはエンパワーメントとは程遠いものだった。私は結局、見知らぬ人とのセックスを恐れるようになり、写真を撮られたり、動画を撮影されたり、触られたりすることを恐れるようになった。ある時点で、ある種のフェミニストの見解はフェミニズムではないと気づいた。私はお金を引き換えに自分の身体を男性に手渡していたのだ。
「セックスワークは仕事(Sex work is work)」という考えに、私の頭は混乱する。一方で職場に「セクハラ防止」のポリシーを掲げながら、他方で、男性が自分のペニスを出し入れさせて自慰行為をし、女性や少女、通常は妻やパートナーではない女性や少女に射精する「職場」があるということが、私には理解できない。売買春が非犯罪化されているのに、そのような方針にどんな価値があるというのか? 売春店で、職場でのセクハラ防止ポリシーがどのように守られるというのか? 人事部がこのような「職場」で平等とセクハラ防止法をどのように実施するのか、私は興味がある。
売春店で「働いた」私の経験は、レイプ、唾吐き、首絞め、ミソジニーなどの非通報事件の連続に等しい。お金がやりとりされ、ドアが閉じられると、あなたは買春者の所有物となる。通常、一方の目でコンドームを、もう一方の目で自分の身の安全に気を遣いながらだ。
社会は、子どもや若者たちに対して、歪んだ新自由主義的で隠されたメッセージを送っている。性産業は、包括的かつ広範囲にわたってノーマル化されつつあるため、私たちは取るべき道を見失いつつある。だからこそ、一部の人々がフェミニズムだと考えている流れを今こそ変え、娘や息子たち、つまり子供たちにも大人にも、お金を払ってセックスするべきではないし、それはフェミニズムでもエンパワーメントでもないことを教えなければならない。それは力を奪うものであり、愛ではない。それは暴力的行為だ。セックスは神聖な行為だとされているのに、商品化され搾取されている。
体系的な防止策と意識向上のための介入が法律においてなされるべきであり、また、思想と態度の変化について、家族や学校、大学、NHS(英国の国民保健サービス)やその他のサービスや組織において、勇気ある会話がなされるべきである。
行動を変えるには、世代を超えて10年から20年を要するだろう。それは疲弊するし、混乱もするだろう。悲しくなったり、いらいらさせられたり、恥辱を感じることもあるだろう。私はこれらのことをよく知っている。しかし、現在の、そして将来の人々や子供たちのために、私は売春の経験者として、また、その業界のサディスティックな暗黙の親密さに精通している者として、北欧モデルを支援し続けていく。
私は、閉ざされた扉の向こう側にあるものを美化するつもりはない。売春から足を洗うまで、私はあまりにも長い間、その嘘に同調していた。
流れを変えるには、買春を犯罪とするよう法律を改正することが必要だ。女性と少女の体は売り物だというドグマ化されたミソジニーを再教育し、男性の快楽のために膣や肛門、乳房を「売る」ことが「エンパワーさせる」という幻想を植えつけられそれを内面化した家父長制的フェミニストに穏やかに異議を唱える。これは、ビジネス階級によるグローバルな規模でのグルーミングだと言いたい。
またこれは、若い男女にセックスや同意、愛について教えることでもある。学校では、生殖機能に焦点を当てた性教育が中心となっている。愛とは何か、愛し合うとはどういうことか、といった問いかけはほとんどなされない。ティーンエイジャーに「性についてどう学ぶか」と尋ねると、彼らの答えはたいてい「ポルノグラフィを通して」だ。
若い男の子がレイプ容疑で告発されたり、性犯罪者として登録されたりするケースが増えている。若い女の子たちは、膣や肛門の裂傷を治療したと報告している。多くの教師が、性的暴力の増加に伴い教育システムが崩壊しつつあると報告している。
私が実際に経験したことから言えるのは、私が出会った買春者の95パーセントは既婚者かガールフレンドがいたということだ。 家計の一部として買春代金を払うために、妻やガールフレンドの同意を求めた者は一人もいなかった。 ウェブカメラの前でも、売春店でも、路上でも同じだった。買い手の男たちの多くは父親でもあった。
私はポルノグラフィや売買春に対する男性の意見について、率直に彼らと話し合っている。私はまったく臆することなく彼らにこう尋ねる。どこかの男たちがあなたの娘の中に射精したり、ポルノを通して娘を見たり、売買春を通じて娘に体を売らせていたら、どう感じるのかと。誰もが「とんでもない」と言う。「自分の娘のためにもっと良いことをしてあげたい」と思う。私の答えは、私たちはすべての娘たちのためにもっと良いことをしてあげたいと思うべきだということだ。すべての女性と子どもたち、そして私たちの息子たちにも同様に良いことをしてあげたい。
性的な行為が若い男女の身体的健康や自尊心に与える影響は、今ではポルノグラフィに映し出されている。何十万人もの女性たち、そして一部の男たちが、男性視聴者の快楽のために、残忍な行為を受け、性的客体とされ、強制され、操られ、そして、同じ行為を自分たちの性的関係の中でも再現しようとする。すべては、エンパワーメント、金銭的利益、地位という見せかけを持っている。
売春に従事していたとき、同意についての私の考え方は歪められていた。私は「権利」とお金という名目で、そうでなければ望まないような性的行為を行なっていたのだ。私の道徳観は大きく歪み、同意に基づく行為とそうでない行為の区別がつかなくなっていた。
性買やポルノ利用に関する性別役割について考えるとき、私は、多くの女性たちが――売春を経験しているかどうかに関わらず――性的トラウマを経験しており、パートナーがポルノを見たり買春したりしているのをやめてほしいと思っていると語ったことを思い出す。
でも、自尊心の欠如が原因で、パートナーのポルノ視聴に反対できない女性たちも多い。「嫉妬しているんだろ」と非難されることを知っているのだ。しかし、社会が女性の幸福よりも男性の性的欲求をはるかに重視している状況では、彼女たちの自信のなさはまったく驚くことではない。そして、多くの女性たちはパートナーのこのような行動に不快感を抱いているが、「男の子は男の子」という考え方に従い、それを受け入れている。
下品な話だが、自分の妻や恋人が、陰でこっそり電話をかけて、ポルノや売買春を通じて若い男性と性的関係を持っていたとしたら、どれだけの男性がそれを快く思うだろうか。「男は男」「男の子は男の子」という社会の固定観念は、前時代的で家父長制的で時代遅れのミソジニーである。
最後に、最近読んだ記事のこと。1990年代に性産業で最も有名な人物の一人であったチェイシー・レイン〔1990年代に最も活躍した米国のポルノ女優の一人〕が、アダルト業界で最も魅力的なパフォーマーとして賞賛されていたにもかかわらず、薬物と売買春に溺れてしまったという記事だ。
デズモンド・ツツ大主教〔南アフリカでアパルトヘイト反対闘争を担った黒人初の大主教〕はかつてこう述べた。「川から落ちた人を引き上げるだけではいけない時が来る。上流にまで遡って、なぜ彼らが落ちたのかを見つけ出さなければならない時が来るのだ」。