【解説】昨日は、国際女性デーでした。それを記念して、それに真にふさわしいアンドレア・ドウォーキンの1979年のスピーチ「嘘(The Lie)」の訳を掲載します。この力強いスピーチはポルノ反対運動の集会の場で行なわれたものであり、40年以上経った今日においてもいささかも色あせていないものです。「男はポルノを信じ、ノーと言う女を信じない」という一節はきわめて鋭いものです。今日ではこれは、「男は、自分は女だという男を信じ、女ではないと言う女を信じない」という風にアレンジすることもできるでしょう。つまり、男は自分に都合のいいイデオロギー、自分の権力と欲望を肯定するもの(それがポルノであれ、似非科学であれ、性自認であれ)を信じ、自分にとって都合の悪い女の言うことは信じないということです。
【ドウォーキン自身による序】
「嘘」は集会用のスピーチとして書かれ、1979年10月20日、ニューヨーク市の格式高く美しい公共図書館の裏手にあるブライアント・パークで発表された。この公園は、普段は麻薬の売人によって支配されている。ブライアント・パークは、図書館とともに、先進国アメリカの性的虐待の中心地であるタイムズスクエアの境界にあたる。スーザン・ブラウンミラー、グロリア・スタイネム、ベラ・アプズーグらが率いる「ポルノに反対する女たち」主催のデモで、圧倒的に女性によって占められた5000人もの隊列がタイムズスクエアをデモ行進した。行進は、タイムズスクエア地区の最上部、西59丁目のコロンバスサークルから始まり、ブライアントパークでの集会がその締めくくりとなった。初めて、タイムズスクエアはピンプたちのものではなく、女たちのものとなった。利潤のために傷つけられ搾取される女たちではなく、誇り高く勝利した女たちのものに。大行進はポルノ業者に、大勢の女性が立ち上がり、まさにあの下劣なストリートで常態化していた女性と少女の組織的人身売買を阻止できることを知らしめたのだ。フェミニストたちは地歩を築いたが、それを維持することはできなかった。
私たちの身の回りにあるヘドロのようなポルノから、インテリがエロチカと呼ぶ芸術的なポルノに至るまで、店の奥でこっそり売られている児童ポルノから、光沢のある男性向けの高級「娯楽」雑誌に至るまで、あらゆる種類のポルノに共通する基本的なメッセージがある。すべての時代のすべてのポルノが伝えるメッセージ、それは「女はそれを欲している」「女は殴られたがっている」「女は強要されたがっている」「女はレイプされたがっている」「女は残忍に扱われたがっている」「女は傷つけられたがっている」というものだ。これがすべてのポルノの前提であり、その第一原理である。女は、こうした下劣なことをされたがっている。女はそれが好きなのだ。殴られるのが好きで、傷つけられるのが好きで、強制されるのが好きなのだ、と。
その一方、この国のいたるところで、女性と少女が実際にレイプされ、殴られ、強要され、残忍に傷つけられている。
警察は、彼女らが望んだことだと信じている。彼女たちを取り巻くほとんどの人は、彼女らがそうされたがっていたのだと信じている。「彼を刺激するようなことをしたのか?」と、虐待された妻は何度も何度も尋ねられる。「そうされるのが好きだったのか?」と警察はレイプ被害者に尋ねる。精神科医は「あなたの中の何かがそれを望んだのだと認めなさい」と迫る。「それはあなたが発したエネルギーだ」と宗教指導者は言う。成人男性は、8歳、10歳、13歳の自分の娘が自分を誘ったのだと主張する。
その信念体系はこうだ。女は傷つけられることを望んでいる。女は強制されるのが好きなのだ。女がそれを望んでいる証拠はいたるところにある。彼女の身に着けている服、彼女の歩き方、彼女の話し方、彼女の座り方、彼女の立ち方、日没後に外出したこと、男友達を家に招き入れたこと、隣人の男性に挨拶したこと、ドアを開けたこと、男を見つめたこと、男に時間を聞かれ、答えたこと、父親の膝の上に座ったこと、父親にセックスについて質問したこと、男の車に乗ったこと、親友の父親や叔父や先生といっしょに車に乗ったこと、いちゃついたこと、結婚したこと、男と一度セックスして、次はノーと言ったこと、処女ではないこと、男と話をしたこと、父親と話をしたこと、一人で映画を観に行ったこと、一人で散歩をしたこと、一人で買い物に行ったこと、微笑みかけたこと。一人で家にいて寝ていて、男が勝手に押し入ってきても、それでも「そうされるのが好きだったのか?」と尋ねられる。「窓を開けっ放しにしていたのは、誰かがひょっこり入ってくるのを期待してのことだったのか? いつも裸で寝ているの? オーガズムはあった?」
彼女の身体は痛めつけられ、引き裂かれ、傷つけられ、それでもなお質問は続く。挑発したんじゃないの? それが好きだったんじゃないの? 本当はずっと望んでいたことなんじゃないの? 望み、欲し、夢見ていたことなのでは? いいえ、そんなことはないとあなたは言い続ける。じゃあ、そうじゃないと証明してみろと言われる。このアザを見てと言うと、女は少し乱暴にされるのが好きなんだよと言われる。何をして彼をあんな風にさせた? どう挑発した? そうされるのが好きだったんだろ?
ボーイフレンドや夫、あるいは自分の両親や、時には同性の恋人でさえ、彼女の側にもし本当にそうする気があったなら相手を撃退できたはずだと信じている。それでも、それが起こったのだとすれば、本当はそれを望んでいたに違いない、と。だが彼女は何を望んだというのか。強制、障害、傷、痛み、屈辱を望んでいたという。だがなぜ彼女はそれを望んだのか? 彼女は女であり、女は常にそれを誘発し、常にそれを望み、常にそれを好むからだ。
それにしても、これらの人々、すなわち、その意見が重要視される人々はみな、女は強要され、傷つけられ、残忍に扱われるのを望んでいるということを、いったいどのようにして知ったのか? ポルノだ。ポルノがそう言っている。何世紀もの間、男たちはポルノを密かに消費してきた。そう、弁護士、議員、医者、芸術家、作家、科学者、神学者、哲学者たちだ。そして同じ何世紀もの間、女はポルノを消費してこなかったし、女は弁護士や議員や医者や芸術家や作家や科学者や神学者や哲学者にはなれなかった。
男たちはポルノを信じる。その中で、女たちはいつも残酷に扱われることを求めている。男たちはポルノを信じる。その中では、女たちが抵抗し、ノーと言うのはただ、男たちが彼女たちを強要し、より多くの力とより多くの残忍さを行使するためだけだ。今日に至るまで、男はポルノを信じ、ノーと言う女を信じない。
ポルノはただのファンタジーだと言う人もいる。どの部分がファンタジーなのか? 女は実際に殴られ、レイプされ、強制され、鞭打たれ、監禁されている。描かれている暴力はいずれも真実だ。ポルノに描かれている暴力行為は、実在の女性や実在の少女に対して実際に行なわれている行為なのだ。ファンタジーなのは、女が虐待されるのを望んでいるという部分である。
だから、私たちがこの場にやって来たのは、落ち着いてこう説明する――声を張り上げ、叫び、わめき、絶叫する――ためである。私たち女はそれを望んでいない、今日も明日も昨日も、それを望んでいない。売春婦は、強制され傷つけられることを望んでいない。専業主婦は、強制され傷つけられることを望んでいない。レズビアンは、強制され傷つけられることを望んでいない。若い少女は、強制され傷つけられることを望んでいない。
そして、この国のいたるところで、毎日、何千人もの女性と少女が残虐な扱いを受けている。これはファンタジーではない。毎日、女性と少女がレイプされ、殴られ、強制されているのだ。私たちは、自分たちが虐待されることを望み、傷つけられることを楽しみ、強制されることを好きなのだということを第一原理、第一前提とするような描写を、二度と受け入れないだろう。
これが、ポルノが存在するあらゆる場所で私たちがポルノと闘う理由である。これが、ポルノを正当化する者、ポルノを作る者、ポルノを買い求める者、ポルノを利用する者と闘う理由である。
間違わないようにしよう。ポルノに反対するこの運動は、検閲を求める運動ではなく、沈黙に反対する運動であり、真の被害者の沈黙に反対する運動である。そして、このポルノ反対運動は、言論のための運動である。性的な強制力によって沈黙させられてきた人々の言論、女性と少女の言論である。そして、私たちは二度とけっして沈黙させられることはないだろう。
出典:Andrea Dworkin, Letters from a War Zone, Lawrence Hill Books, 1993.