【解説】以下は、女性人身売買反対連合(CATW)の事務局長であるテイナ・ビエン・アイメさんの最新記事の全訳です。日本でも公開されている映画『ANORA アノーラ』について論評です。売買春を美化し、それを普通の職業として受け入れるよう誘導するこの絵以外の問題性について明らかにしています。日本でもNHKの大河ドラマ『べらぼう』が吉原遊廓を利用してのし上がる人物を主人公にしており、結果として、遊廓という悲惨な人身売買所を正統化し、美化しています。
テイナ・ビエン・アイメ
Women’s e News, 2025年3月3日
ショーン・ベイカー監督の2024年のインディーズ映画『ANORA アノーラ』は、その冒頭、「ヘッドクォーター」という名のストリップクラブのバックルームへと観客を導く。そこには、若い裸の女性たちが腰をくねらせている中、レザーシートに寝そべる男性客が散見される。ポルノ的で覗き見的な、男性の視線を模したこの最初のシーンは、なぜソフトコアポルノがオスカーにノミネートされた映画として出品されているのかという疑問を抱かせる。
主人公のアニー(アノーラの愛称)は23歳。ヘッドクォーターで契約している女性の一人だ。ウズベキスタン系の女性で、気が強く、たくましく、常に自分に対する次の攻撃に警戒している。
ある夜、店のマネージャーがアニーに、ロシア語を話す客を相手にするよう命じた。アニーは不本意ながらその求めに応じ、ヴァーニャを迎えた。ヴァーニャはすぐに、ロシアの寡頭政治家の息子であることがわかる。まだ21歳のヴァーニャは、無鉄砲で、子供のような大人で、毎日ビデオゲームをして過ごし、ブルックリンの海辺にある豪邸で、麻薬をふんだんに使った派手なパーティーを主催していた。
ヴァーニャはアニーを1週間雇い、1万5千ドルを払って「ガールフレンド体験」をたっぷり味わう。最後に、彼は金で得たセックスの乱痴気にすっかり酔いしれ、彼女にラスベガスで結婚しようとプロポーズする。アニーとヴァーニャの関係は、深刻な力の不均衡によって作り出され、ねじ曲げられているが、アニーは3カラットのダイヤモンドの指輪さえもらえればいいと言って、それを承諾する。
この種の映画の先駆けである『プリティ・ウーマン』のシンデレラ的な生ぬるいハッピーエンドとは異なり、ベイカー監督は、追いつ追われつの激しい物語へと視聴者をいざなう。怒りに駆られたヴァーニャの両親が暴漢たちを雇い、新婚夫婦を追い詰めて結婚を無効にするよう命じるのだ。結局アニーはヴァーニャに捨てられ、彼の両親からお金で厄介払いされて、妹と暮らすブライトン・ビーチの質素な家へと寂しく帰る。
NPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)から『ニューヨーク・タイムズ』まで、評論家たちは『ANORA アノーラ』に最大級の称賛を惜しまなかった。同映画は「場所と建築物の表現において、ほぼ比類のない作品」と評された。カンヌ映画祭のパルム・ドールをはじめ、最も権威ある賞を総なめにし、監督賞、女優賞、作品賞を含む5つのアカデミー賞も受賞した。
この手放しの称賛の声のもと、『ANORA アノーラ』は売買春を他の仕事と同じものとして肯定的に描き出し、アニーがその中でエンパワーされたとして売買春を美化している。だが、現実には、売春に従事する人のほとんどすべてが、幼少期の性的虐待、ホームレス、あるいは性的人身売買の被害者である。18歳になっても、その法的地位が消えることはない。アニーが疲れ果て、すぐにカッとなってしまう傾向があるということ以外は、彼女が売春店に行くようになった経緯については何もわからない。
ただし、ベイカー監督は、ヘッドクォーターの薄汚い部分や、自己の性的倒錯を満たすために女を陳列棚のお菓子のように選ぶ男たちのことは美化していない(「彼(客)、私に言ったのよ、お前は俺の18の娘に似てるって」と、あるストリッパー仲間はアニーに語っている)。
しかし、ベイカー監督は数十億ドル規模のグローバルな性売買の残忍な現実や、そこから生じる暴力については触れていない。アニーがマネージャーに「ヘッドクォーターは福利厚生を何も提供しない」と怒鳴りつけたとき、観客は彼女の度胸の良さに共感して笑った。だが、この映画は、最低限の職場保護法に違反して、ストリップクラブの中の女性たちが慢性的に受けているセクハラや性的貶めについて探求することには興味がない。
おそらく、ベイカー監督には別の意図があるからだろう。映画祭キャンペーン中、監督は『ANORA アノーラ』の成功を、彼が「セックスワーク」と呼ぶものが社会に受け入れられつつある兆候としてたびたび指摘した。インタビューでは、ベイカー監督は売買春の合法化を支持するなど、映画監督から活動家に変貌する。
「現代におけるセックスワークとは何か、資本主義社会においてそれがどのように適用されるのかを探究することが重要だ。それは仕事であり、生計であり、キャリアであり、尊重されるべきものなんだ」と、ベイカー監督はカンヌ映画祭で力説した。
もしベイカー監督がこれを何か反体制的なスタンスだと考えているのであれば、まったく時代に乗り遅れている。40年前、性売買で利得を得ている連中は、ピンプ(斡旋業者)を「マネージャー」と再定義し、男に売られる女性たちをエンパワーされた「労働者(ワーカー)」として売り込むために、マーケティング用スローガンとしてこの「セックスワーク」という言葉を考案した。「セックスワーク・イズ・ワーク」というモットーは、戦略的に、売買春の有害性を問うことなく、人間の商品化を称賛する社会文化的なエートスを育んできた。
OnlyFans、パパ活、ポルノなどを通じて、女性と少女は常に、男が彼女たちを自由に消費してよいというメッセージを受け取っている。ジェネレーションZは、スマートフォンに直接配信されるありふれたポルノを日々消費しながら成長し、発達中の脳のシナプスに、男の子が支配する運命にあること、そして女の子は笑顔で隷属を楽しむべきことをせっせと刷り込まれている。
おそらく意図的ではないが、ベイカー監督は性売買に内在する人種隔離(racial segregation)の側面も見落としている。ヘッドクォーターの「ダンサー」のほとんどは白人である。しかし、世界中で推定で4200万人いる被買春者の大半は、黒人、褐色人種、アジア人、先住民の女性たちだ。それは植民地主義と抑圧構造の遺産であり、その影響は今日まで残っている。そして、その中には、自分の獲物を選ぶ際に買春者が示す特定の人種差別的で民族的なフェティシズム的傾向も含まれる。
ハリウッドは周辺化されたコミュニティ、特に女性たちや黒人の人々に対するステレオタイプを永続させるという長い歴史を持っている。映画『ANORA アノーラ』の中で、ベイカー監督は、「幸せな娼婦(ハッピー・フーカー)」というステレオタイプを永続させることはしていないが、同じぐらい有害なことをしている。アニーの苦境を当たり前のこと、あるいは当然のこととして描くことで、彼は、人生の選択肢がほとんどない女性たちにとって売買春が有効な雇用先であるという前提で物語を推し進めているのだ。
「金銭を伴う性的行為を行う2人のうち、同意する選択肢と力を持っているのは買春者だけです。私は彼らを『商業的性犯罪者』と呼んでいます」と、カナダの売買春サバイバーであり、被害者支援と買春者・業者の刑事責任を問う法律〔北欧モデル法〕の支持者であるアンドレア・ハインツは言う。「売春に携わっていた長い年月の間、私はけっして彼らにとって人間ではなく、ただ彼らのオーガズムと権力ゲームのための穴だったのです」。
世界中で日々増え続ける危機的状況の中、女性の人身売買や売買春は、政治的・経済的優先事項の配置図の中で、ごく狭い一角を占めるにすぎない。だがこれは近視眼的だ。性的人身売買のサバイバーを支援し、買春者を含む加害者に責任を取らせることは、平等を達成し、性的人身売買を防止し、公衆衛生に投資する努力にとって不可欠である。
『ANORA アノーラ』は、売買春にまつわるスティグマの解消に貢献したとして称賛されているが、実際には、あらゆる形態の性的暴力で女性が受ける苦痛に対する共感の欠如を強めている。サバイバーの生き地獄のような経験を無視しているからこそ、南アフリカからニューヨークまで、ピンプ行為を非犯罪化する法案が政府によって提案されるのだ。このことはまた、虐待行為の疑惑があるにもかかわらず、なぜ米国議会が性的捕食者の愉快な仲間たちを最高レベルの権力の地位に就けることをためらわなかったのか、そして、スイスのダボスで開催される世界経済フォーラムにおいて、なぜおびただしい数のエスコート売春業者が営業しているのかも説明する。
「セックスワーク・イズ・ワーク」という考えは、多くの国々で受け入れられ、性売買やそれが破壊する生活に関する真実を歪めるようそそのかしている。売買春のサバイバーたちの声に耳を傾けることができるなら、解決策は手の届くところにある。その声は、男性に性的権利資格(sexual entitlement)が与えられているかぎり、女性にとっての平等は幻想のままであることを認識するのを助けてくれるだろう。
出典:https://womensenews.org/2025/03/women-for-sale-what-anoras-success-tells-us/