アンドレア・ドウォーキン「アウト・オブ・ザ・クローゼット」

【解説】ドウォーキンの元パートナーであったジョン・ストルテンバーグが彼女の死後、ドウォーキンがトランスアライであったという神話をまき散らし、TRA(トランス活動家)もそれにもとづいて同じ神話を繰り返している。その根拠は、ドウォーキンの最初の作品である『ウーマン・ヘイティング(女性憎悪)』(1974年)の最終章で、性の多様性が称揚され、その中でトランスセクシュアルが支持されていたというものである。しかし、その後、ラディカル・フェミニストのジャニス・レイモンドが有名な『トランスセクシュアルの帝国』を出版して、初めてラディカル・フェミニズムの立場からトランスセクシュアリズム(当時はまだ「トランスジェンダリズム」は存在していなかった)を批判した時、ドウォーキンは同書を熱烈に推奨する推薦文を書いている。また、1989年のシンディー・ジェネフスキーとのインタビューでは、ドウォーキンは、1974年の著作、とりわけその最終章で自分は多くの間違ったことを書いたと告白している。

 そして、今回紹介する2003年の書評エッセイ(エイミー・ブルームの2002年の著作『ノーマル』の書評)において、このトランス問題についてより踏み込んだ立場を表明している。まず、FtMのトランスセクシュアルについて、著者のブルームが「男性だ」と感じたことに疑問を呈し、単に西洋文化において女性に押しつけられて来た偽りの装飾性を欠いているだけではないのかと問うている。さらに、今では「トランスジェンダー」というアンブレラタームで総括されている異性愛の男性クロスドレッサー(女装者)に対して、ドウォーキンはそれがフェティッシュな欲望にもとづくものであることを正しく指摘している。また、DSD(性分化疾患)の人々に関しては、医療による恣意的な介入を批判している。これを読めば、ドウォーキンをTRAが言うような意味での「トランスアライ」に含めることは難しいことがわかるだろう。

アンドレア・ドウォーキン

『ニューステーツマン』2003年9月22日

エイミー・ブルーム『ノーマル――トランスセクシュアルのCEO、女装警官、両性具有』(ブルームズベリー、2002年)の書評

 エイミー・ブルームは、私が『ウーマン・ヘイティング(女性憎悪)』(1974年)で「マルチ・セクシュアリティ」と呼んだものについて、ヒューマンでリベラルな本を書いた。彼女は、それ〔マルチ・セクシュアリティ〕を「ジェンダーには連続性があり、流動的な可能性の範囲がある」という概念として表現している。彼女はさまざまなエピソードと観察を通して、性およびジェンダーの多様性の現実を示す3つの現象を考察している。FtMのトランスセクシュアル、女装する異性愛男性、そして時に両性具有とも呼ばれるインターセックス〔現在では性分化疾患(DSD)と呼ばれている〕の人々である。インターセックスの人々は、出生時に性器や生殖器官がさまざまに非典型的な形で形成されている。彼女は問いかける。「何がノーマルなのか? そして、なぜノーマルであると思われている私たちの一部は、ノーマルではないと思われている人々をこれほどまでに恐れるのか?」

 FtMのトランスセクシュアルに関して、ブルームは、女性憎悪の外科医の手術を受けた自己嫌悪に陥っている女性たちに出会うと思っていたが、実際に目にしたのは「男性」だった。「私は、インチキ芸術家、セールスマン、コンピュータープログラマー、強迫的でミソジニー的な誘惑者、魅惑的な美少年、カウボーイ、ニューエイジの予言者、古き良き男たち、結婚式のために貯金しているシャイなトラック運転手、そして紳士的な騎士たちに出会った。つまり私は男たちに出会ったのだ」。 彼女は、男性である(maleness)とは何であるかはわからないが、会えばそれが男性だとわかると言う。あるインタビューで彼女は相手に、「これまでに手術を受けたことはありますか?」と尋ねた。その「男性」は「ええ、両乳房と子宮を摘出しました」と答えた。彼女は信じられないという表情で、思わず「でもあなたは男性ですよね」と答えた。

 ブルームは、ホルモン治療のさまざまな段階にあるFtMのトランスセクシュアルの写真アルバムを見た。その変化はジェンダーの流動性を示唆している。しかし、手術には多大な痛みと費用が伴う。FtMのトランスセクシュアルの多くは、男性器を形成しないことを選択する。FtMの一人であるジェームズ・グリーンは言う。「そうしたのは、私は別に大きなペニスが必要だとは思わないし、今までの感じ方が気に入っているからです。この性的快楽の形は、私とガールフレンドにはちょうどいいんです」。

 女性器を維持しセックスをあまりしたくないという志向、ペニスそのものをそれほど重視しない点など、これらの「男性」とみなされている人々の「男性性」をめぐって多くの疑問が浮かぶ。これらのFtMのトランスセクシュアルに対するブルームの主観的な反応、つまりこれらの人々は男性だと感じたことは、より厳しいチェックには耐えられないかもしれない。彼(女)らのうちの誰かが性的暴行を犯したことはあるのだろうか? ブルームは彼(女)らのコミュニケーションの仕方を男性的と感じたようだが、女性でもそういう振舞い方をすることもあるだろうし、あるいは自分らしく振舞うことが単に男性的であると――つまり、西洋における女性役割のわざとらしさや装飾性を欠いていると――見えただけかもしれない。

 次に女装する異性愛男性についてだが、彼らはその「人工性」を好む。彼らは女装や化粧に対してフェティッシュな関係を持っている。女性として見られたいという貪欲でナルシスト的な欲望があるのだ。ここでのフェティッシュは、「魅力と羨望が交じり合ったもので、これらの男性をして、自分は男性のレズビアンであると思いながら女性とセックスすることへとしばしば誘う」。

 これらの人々は、本書のサブタイトルで提示されている「女装警官」のことである。ブルームによると、「異性装の同性愛者は退役軍人に不釣り合いに多く見られる。彼らは長男であることが多く、かなり男らしい外見をしていることが多い。それが、他の人々が彼らの外見に困惑する理由だ」。男たちは女装が表現する隠された女性的な側面を主張するが、ブルームの表現を借りれば、「内なる女性なるものは完全にメイベリン化粧品バージョンの『女性』」である〔「メイベリン」はアメリカの最も代表的な化粧品ブランド〕。男たちはフェミニズムや自然保護主義にリップサービスをすることもある。

 苦しむのは妻たちだ。ブルームは、過酷なダブルスタンダードを許容しながら結婚生活を続ける彼女たちは、ごく普通の女性であると指摘する。もし妻の方が男装し、体毛を剃らなかったり、高価な人工ヒゲに金をかけたりしたら、結婚生活はとうてい続かないだろう。ダブルスタンダードには別の面もある。ある妻はこう言っている――「20年間、夫はサッカー観戦を理由に皿洗いを手伝わなかった。今、夫はネイルケアを理由に皿洗いを手伝わない。何が違うの?」

 ブルームは、この種の男たちに困惑した。彼女は残酷であったり不寛容であったりしたくはなかったが、こう結論せざるをえなかった――「ある人に対する情熱、あるいは人を愛する能力は、物や行為に向けられる性的衝動とは異なるものであり、後者は特定の人物に対する欲望よりも強い」。女装しない異性愛男性のほとんどもそうだ。彼らのより広い世界へようこそ。

 最後のグループは、インターセックスと呼ばれる人々である。生まれつき陰茎が小さい男性、陰核が大きい女性、そしてさまざまな遺伝的な変異である。これらの状態に関連する性器および生殖器の異常は多岐にわたる。彼ら・彼女らは何の罪もないのに、不運な運命を背負わされた人々だ。そこへ外科医が自然を修正するために介入した。彼らは男の子と女の子のどちらかを決定し、それをできるだけ真実に近づけるためにメスを入れる。

 インターセックスの人々が大人になり、自ら組織化を始めるまで、手術が必要不可欠なものだとする考えに異議が唱えられることはなかった。そして、「不必要な手術はノー、同意なしの美容整形手術はノー…。嘘をつかない、恥を植えつけない」という倫理観が発達してきた。インターセックスの子どもたちは、自分自身について最も多く嘘をつかれてきた存在だった。戦いはまだ終わっていない。今もなお、多くの医師が乳幼児に性別適合手術を行なっている。社会的に理不尽な状況が最も顕著に現れるのは、外科医が家父長的な権威として振る舞うときだろう。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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