【解説】本稿は、オーストリアで長らくセックスワーク権利運動の中心人物の一人として活動していたファイカ・エル=ナガシさんのブログ記事の全訳です。当人の許可を得たうえで、ここに掲載します。
ファイカさんは主として移民女性の支援運動をやっていましたが、移民女性の多くが人身売買の被害者であり、またウエイトレスの仕事があると騙されてヨーロッパに来たら、実際にはそれは性産業であったという事例が多かったことから、人身売買問題にも取り組み始めました。しかし、主流派の運動はセックスワーク論(セックスワークは他のどの労働とも同じ労働であり、女性の主体性とエンパワーに役立つ)に立っており、ファイカさんも当初はその立場で運動をしていました。しかし、性産業における移民女性の実態を知るにつれ、しだいに疑問を大きくしていき、やがて、売買春において暴力は偶発的なものではなく、それに内在した構造的なものであり、それを安全なものにすることはできないと確信するに至りました。その過程を手記にしたのが本稿です。
本翻訳は、APP国際情報サイトの一読者から提供されたものに修正と注を加えたものです。提供してくださった方にここで改めてお礼を申し上げます。また、本稿の翻訳掲載を快く承諾してくださったファイカさんにもお礼申し上げます。
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ファイカ・エル=ナガシ
2025年5月12日
かつて私は、セックスワークは労働であり(セックスワーク・イズ・ワーク)、権利ベースの活動を通じてそれをより安全にできると信じていた。しかし、今はもう、そうは考えていない。
2000年から2011年まで、私はオーストリアの移民女性の当事者団体(当時はそうだった)で働いていた。それは私にとって初めての本格的な仕事だった。それは学生組合での活動や、国境を越えた若者向けイベントを通じた自己発見とは異なるものだ。働き始めたのは24歳。35歳で辞めるまでに、地方レベルから欧州レベルまで、あらゆるレベルでセックスワーカーの権利のために出版、発言、請願、組織化の仕事をしてきた。「セックスワーカーが欲しくてたまらないのは…〔男ではなく〕権利だ!」のような挑発的スローガンのもと、国会前でキャンペーン活動を行なったりした。私は、キャンペーンでどのようなポイントを中心に話をすればいいか熟知していた。その多くは私自身が考え出したものだ。
この組織そのものを作ったのは、ラテンアメリカ出身の女性たちであり、その多くは自国で軍事政権と戦ってきた亡命フェミニストたちである。迫害され、投獄され、拷問された人もいた。自分の友人や親族を失った人も多い。消されたのだ。彼女たちは痛みと怒り、知恵と勇敢な信念を胸に抱いており、自分たちが政治的存在であることを深く理解していた。その深い理解は、全体主義体制に立ち向かうために自分の命や家族を危険にさらすことから生まれたものだ。ウィーンの政治的主流派に属する人々は、彼女たちをどう扱えばいいかわからなかった。畏怖と恐怖のあいだを揺れ動いていた。これらの女性たちは、制度化されたフェミニズムのテクノクラート階級の中に明確さと対立を持ち込んだ。
それは私が成長し、成熟した場でもあった。職業人としてだけでなく、個人的にもだ。私は女性だけの環境で学び、探求し、議論し、祝い、そして明確な政治意識を持つようになった。若い時にそのような経験ができたことに今も深く感謝している。同僚のほとんどは移民女性だった。私たちが支援した相談者もみな女性だった。そして、私たちは、チームミーティング、赤ワインを酌み交わすイベント、疲弊する日々の後の社交的な集まりで鳴り響くドラマチックなラテンミュージックを大切にしていた。シスターフッド、サバイバル、そして連帯だ。
1980年代末から90年代初頭にかけて、私が後に加わる組織を含め、オーストリアやドイツの多くの移民女性組織は、エイズ危機の余波で相互に関連する2つの動向に細心の注意を払うようになった。第1は、セックス・ツーリズムの増加だ。西ヨーロッパの男たちがアジア、ラテンアメリカ、アフリカの国々へ渡航し、現地で、経済的困窮と依存に直面している女性を搾取していた。第2は、「移民の女性化(feminization)」と言われるものだ。自分と家族を養うためにグローバル・サウスの国々から単身で移住してくる女性の数が増えていた。これらの女性たちは、深刻な家父長制的状況にある国や地域からやって来ている場合が多く、第三国〔TCN:ヨーロッパ連合の市民ではなく、またスイス、アイスランド、ノルウェーなどのヨーロッパ圏の市民でもないこと〕の出身者としてヨーロッパに入国する。これらの出身者は、合法的な労働移住をほぼ不可能にする過酷な移民規制の対象である。しかしながら、女性として、彼女たちは特定の部門では大いに必要とされていた。家事労働、高齢者介護、結婚、そして性産業だ。
明かになったのは、これらの女性の多くが人身売買されてヨーロッパにやって来たことだ。ダンサーやウェイトレスの仕事を約束されたものの、搾取的で強制的な状況に置かれた人もいた。売買春に従事することはわかっていたものの、思っていたのとは違う状況の下で従事することになった人もいた。それゆえ、私が属していた組織は、女性自身の話を聞くことを通じて、人身売買の問題に取り組み始めた。こうして私たちは、性産業に従事する移民女性を支援し始めたのだ。
11年間、私は文化の仲介者として──後にプロジェクトマネージャー、および地域ネットワーク・コーディネーターとして──、移民女性たちと肩を並べて活動した。彼女たちの多くは、このシステム〔売買春〕に引き込まれたハンガリー人女性やナイジェリア人女性だった。私はハンガリー語が母語で、ルーツの半分がエジプト系だったので、時には隔たりを橋渡ししながら、信頼、繊細さ、共有された文脈を必要とするこの活動において、彼女たちに支援を提供することができた。私たちはアウトリーチや街頭支援を行ない、女性たちに同行して健康診断や中絶クリニックに行ったり、彼女たちの代わりに警察や裁判所に手紙を書いたり、家主や活動家の友人に電話して緊急避難場所を見つけたりした。ワークショップを開催し、トレーニングプログラムを構築し、さまざまな会議を組織した。さまざまなキャンペーンを立案し、議員に請願し、北欧モデルの導入を阻止した。私たちは、移民女性のセックスワーカーたちを、彼女たちの脆弱性と弱い法的地位から利益を得ている深くジェンダー化されグローバル化された産業における「主体」として認識させるために闘った。救済ではなく権利を。パターナリズムではなく非犯罪化を。

ジュリー・ビンデルのことは会う前から知っていた。私たちはみんな知っていた。スコットランド在住の私たちの仲間は、私たちが知る必要のあるすべてのことを教えてくれた。曰く、ビンデルは悪辣で、憎悪に満ち、危険な女だ。そして、何より悪いことに、アボリショニスト(性産業廃止論者)だと。つまり、私たちの敵だということだ。
2022年にようやく直接会ったとき──ヨーロッパ・レズビアン会議(EL*C)への私の参加が拒否された事件〔エル=ナガシはセルフIDに異議を唱えたことで、会議への参加を拒否された〕を受けて、親切にも私に連絡をくれたのだ──、私が彼女に言い放った最初のセリフの一つはこうだった──「私がアボリショニストではないことを知ってますよね?」。
幸いなことに、彼女はそれを協力関係の条件にすることはなかった。そして、私がその後数年間に出会った他の多くのフェミニストたちもそうだった。ジェンダークリティカル・フェミニストであれ、ラディカル・フェミニストであれ、性売買に批判的な視点を持つ他のフェミニストもみなそうだった。フェミニストをあまり強く自認しない人もいたが、それでも売買春を安全にしたり、エンパワー的なものすることができるという考えを否定していた。彼女たちは、意見が違うからといって私を追放しはしなかった。しかし、私たちはその話題を完全に避ける傾向があった。私は自己防衛に走りがちで、それゆえすぐに喧嘩腰になってしまうからである。
そして、見直すべきこと、検証すべきことがあることが薄々わかっていたが、自分が熟知している議論に固執することを選んだ。その多くは、移民女性とその特殊な状況を中心にしたものだった。つまり、差別、レイシズム、過酷すぎる移民法などさまざまな問題の重なり合いへと焦点をずらし、移民女性がフェミニストの分析の中で人身売買の被害者としてのみ位置づけられているのはいかがなものかと論じた。私はそれについてますます概念上の確信が失われていっていることを見ないようにし、不安を心の奥底に押しやった。一個の信念体系となっているものを一気に解体するのは、あまりにも困難なことだった。
そんな時、ある事件が起こり、私は堂々巡りをやめざるをえなくなった。
2024年2月下旬、ウィーンで3人の中国人女性が殺害された。彼女たちは小さなマンションの一室で独立して売春に従事していた。赤いライトも看板もない、匿名の目立たない屋内店。中で何が行なわれているかを示すものは何もない。それはまさに、私たちのマッピング・プロジェクトで、性産業における最も安全な選択肢とみなしていた種類の環境であった。アルコールなし、喫煙なし、用心棒なし。女性が自分たち自身で予約を管理し、自分たちの空間を持ち、自分たちでルールを決める。
殺害犯は、27歳のアフガニスタンからの亡命申請者であった。男はこれまでその店に行ったことはなかった。店は広告を出していなかったし、男がそこを見つけ出す目につく理由もなかったが、男はそれを探し出し、中にいる女性たちに襲いかかったのだ。その場にいた4人の女性のうち3人が殺された。いずれも数十回刺されていた。1人の女性は部屋に中から鍵をかけて息を潜めていたおかげで殺されずにすんだ。法廷で、犯人はセルビアへの旅の途中で出会った女に魔法をかけられたんだと主張し、宗教的な妄想と幻覚を引き合いに出した。彼は精神病院に送られた。
もちろん、これはオーストリアにおける売買春の中の女性が被害者となった初めての殺人でもなければ、初めての極端な暴力の行為でもなかった。他にもあったし、そのいくつかは同じぐらい残虐なものだった。しかし、この事件は、私たちが何年もずっと擁護して来た物語に穴をあけるものだった。最も安全だと長年みなしてきた環境でこのようなことが起こりうるとすれば、それは私たちのアドボカシー活動そのものが立脚して来た枠組みについて、何を意味しているだろうか?
私がかつて属していた組織の新しい世代の活動家たちは、それについて何と言ったろうか?
その反応――これらの人々からの、そしてより広くオーストリアのセックスワーク・アドボカシー・ネットワークからのそれ――は、まるでロボットのようであった。スティグマの排除、可視化、労働の権利、等々と同じ言い回しが繰り返された。まるでこれが、私たちが比較的安全だとみなしていた数少ない環境の一つで、女性が標的とされた虐殺ではなかったかのように。いかなる再評価も行なわれなかった。この労働環境が提供するはずだった「自律、保護、コミュニティ」に関して私たちが間違っていたかもしれないと認めた者は一人もいなかった。まさにその環境で3人の女性が虐殺されたばかりだというのに。暴力が性産業に付随する偶発的なものではなく、それに内在したものであるかもしれないという考えを前にして、居心地の悪さを感じることもなかった。
この残酷な現実と、彼女たちが推進してきた美化イデオロギーとの間のギャップを埋めることは、不可能になっていた。なぜこの産業を安全にできると偽り続けるのだろうか? 女性がなにゆえか搾取されてないなどと、なぜ偽り続けるのか? そして、よりにもよって移民女性が、本質的に彼女たちを屈辱的に扱い侵害するよう設計されたシステムの中で、真の自律性を見出せると偽り続けるのか? しかし、概念的な明確さをドグマ的相対主義によってすでに犠牲にしてしまっているとき、どうやって、それらの偽りに対して異議を唱えることができるだろう?
近年、セックスワーク権利運動の言葉遣いは、実際の女性の生活からますますかけ離れたものになっている。男性の暴力に関するフェミニストの懸念は、モラル・パニックだと再解釈されるようになった。売買春の中の人々のほとんどが女性であること、しかもしばしば移民の女性であるという圧倒的な事実は、さまざまな留保によって絶えず弱められた。曰く、セックスを売る男もいる、すべての客が男というわけではない、クィアやトランスの人々もこれに関わっている、といった留保である。これらはみな厳密に言えば真実だ。しかし、周辺的な事例によって分析の枠組み全体を変更することは、まったく理屈に合わない。その戦略は明らかだ。男性の暴力を名指しすることや、売買春を家父長制的な搾取システムとして直視することを避けることで、女性というカテゴリーを解体することである。政治的明確さは失われ、複雑さがそれに取って代わった。そしてフェミニズムは、すべての人を含めることが期待され、そうしなければ排他的で暴力的であると非難されるようになった。
女性の定義が拡張されればされるほど、現実の女性は不可視なものになっていく。とりわけ貧しい移民の女性がそうだ。私たちは、「男は売買春の中の女性に対して暴力的である」と言うのをやめ、「セックスワーカーは暴力に直面している」と言うようになった。加害者を名指しすることさえ物議をかもすものとなった。フェミニストたちは、これまで女性を中心に据えてきたことについて謝罪し始めた。女性への言及はすべて「およびクィア」と言い足さなければならなくなった。そして人種の問題が議論の枠組みに入ってくると、焦点がぼやけ始めた。移民女性は、カテゴリーを拡大する入り口となった。アイデンティティが追加され、経験が重ね合わされ、ついにはその用語自体がもはや適合しなくなった。こうして「移民女性」は「周縁化されたコミュニティ」になった。最終的に、売買春はもはや性暴力とは無関係なものになった。それは、清掃、介護、観光のような、女性化された労働分野の一つとなった。
私が属していた組織はそれ以来、完全に「アスタリスク(注の印)」だらけになり、通常は女性を意味すると理解されうるあらゆる単語に律儀にそれを追加するようになった。私がさまざまなことを学んだフェミニストの同僚たちは、ほとんどいなくなってしまった。世代間の継承は失敗した。そしてこれは、象徴的な母親を殺すことが必要になるときに、しばしば起こることなのだ〔精神分析学において「象徴的母親」は子供に全能感を与える存在とみなされ、それを「殺す=否定する」ことで子供は自立するとされるが、ここではそれをもじって、旧世代の女性(主として第2波フェミニスト)を否定することで、男性社会への忠誠を誓おうとする若い世代の傾向を指している〕。かつてフェミニスト組織だったものは、もはや見る影もなくなった。それらは「クィア化」された──形式においても内容においてもだ。分析は姿を消し、スローガンに取って代わられた。政治に基づいた連帯は、パフォーマティヴなアライシップに取って代わられた。断固たるフェミニストたちは、パンク・スタイルの活動家、クィア化されたNGO、そしてセックスワーク派のアジェンダを熱心に採用する新時代のLGBT組織に道を譲った。「セックスワーク・イズ・ワーク」は、政治的なパフォーマンスとなった。すなわち、転覆的で、社会的弱者に対する最先端の忠誠心を示すものであり、仲間として認識され承認されるために演じられるものなのだ。
こうした状況が展開されていくのを遠くから見ていて、誰かがブレーキをかけて方向転換をするのを待ち続けたが、誰もそうしなかった。そして、あまりにも長い間、私もそうしてこなかった。私たちのアドボカシー活動がどうなっていったかを目を凝らして見ることを、私はずっとためらっていた。私は、旧来の分析の一部にしがみついていた。すなわち、性産業における移民女性の生活とサバイバルを形作っている諸条件、彼女たちからいっさいを搾取するシステムにおいて彼女たちを「主体」として認識する必要性、である。しかし最終的に、私はより多くの議論、より多くの対決を求めるようになった。
「少数の人々がそんな風に感じていないとしても、他の誰にとってもあまりに危険で、あまりにも暴力的で、あまりにも屈辱的であるとみなされるであろうことを、なぜ移民女性が行なうことが許容されるべきなのか?」。移民女性と難民女性の権利のためのアドボカシー活動家が私にこう尋ねた。彼女は正しかった。
移民女性の搾取を搾取だと言い、それと対決する試みとして始まったものは、まったく別のものに変質した。つまり、システムそのものを称賛するものに成り果てたのだ。それはシステムの残酷さを隠蔽することであり、それを破壊する意図のない構造に加担する行為であった。それは、自律、選択、プライドという言葉でこのシステムを再ブランド化するものだった。
10年以上にわたって、私はオーストリアで「セックスワーク・イズ・ワーク」という枠組みを主張する最も主要な声の一つであった。しかし私はもはや、このような権利言葉が、このシステムの中心部に内在しているリスクを相殺するものになるとは信じていない。とりわけ、誰もが暴力について言い逃れをすることにたけている今日ではそうだ。暴力は付随的なものではない。それは構造的なものである。そして、それを不可避なものにしているシステムを守ることをやめなければならない。
出典:https://faikaelnagashi.substack.com/p/what-i-want-to-say-about-sex-work