【解説】さまざまな角度と歴史からレイプについて論じ、レイプを女性従属のための男性の普遍的な武器として捉えた『私たちの意志に反して』というタイトルの著書で有名なアメリカのラディカル・フェミニスト、スーザン・ブラウンミラーが今年の5月25日、90歳で亡くなりました。彼女はまた、1970年代におけるアメリカの最初の本格的な反ポルノ運動の創始者のひとりでもあります。以下は、イギリスのラディカル・フェミニスト、ジュリー・ビンデルさんの追悼文の全訳です。
ジュリー・ビンデル
『ガーディアン』2025年6月3日
90歳で亡くなったスーザン・ブラウンミラーは、1975年に『私たちの意志に反して(Against Our Will)──男、女、レイプ』〔邦訳は『レイプ・踏みにじられた意思』勁草書房、2000年〕を出版した時、自分の著作が左右の政治的スペクトラムを横断して、どれほど物議を醸すことになるのか想像もできなかったろう。『私たちの意志に反して』はレイプに対する考え方に革命をもたらし、性犯罪に関する法律を変えるきっかけにもなった。
その中でブラウンミラーは、レイプ犯を「最前線の男性突撃隊であり、世界が知るかぎり最も長い持続的な戦闘におけるテロリスト・ゲリラ」であると表現し、こう述べている── 「自分の性器が恐怖を生み出す武器になるという男たちの発見は、火の使用や最初の粗雑な石斧と並んで、有史以前の最も重要な発見のひとつに数えられるに違いない」。
それ以来、同書は版を重ね続けた。『私たちの意志に反して』は、レイプの歴史とその規制について、先史時代から現代まで網羅的に分析している。古代ギリシャと古代パレスチナ、中世ヨーロッパ、アメリカ独立戦争から1970年代まで。戦争の武器としてのレイプ、家庭内での子供へのレイプ、男性刑務所内での男性へのレイプ等々が論じられ、分析された。ブラウンミラーはレイプを、すべての男性に利益をもたらし、すべての女性を恐怖と隷属の状態に置く政治的行為として理解した。
『私たちの意志に反して』を研究する以前、ブラウンミラーはレイプは「異常者」が犯す犯罪であるという通常の考えを持っていた。ヒッチハイク中にレイプされたサラ・パインズのようなサバイバーと出会ってから、彼女は考えを改め、「レイプとは、すべての男性がすべての女性を恐怖のどん底に追いやる、意識的な脅迫のプロセスにほかならない」と書いた。
フェミニストたちがレイプについて発言し始める前の1960年代後半には、奔放な男性の性欲が原因だという考え方が広まっていた。ブラウンミラーはこれに反論し、レイプは、女性と少女を商品化し客体化する社会の中で、男性が女性と少女をどのように見ているかの産物だと考えた。レイプを個人的な行為としてではなく、政治的な行為として枠づけした最初の著作である。
ブラウンミラーの活動は、他のフェミニストたちに触発され、また他のフェミニストたちとともになされたものだが、それは、米国における婚姻内レイプを犯罪とする最初の法律(1970年代後半に可決)を導入する上で極めて重要な役割を果たした。彼女は、「レイプシールド法」導入運動を触発する役割も果たした。この法律は、法廷におけるレイプ犯の弁護戦術として、告発者の過去の性的経歴を利用すること〔たとえば、過去に多くの男性と性的関係を持っていたので、今回の行為はレイプではないとして弁護すること〕を禁止したものである。また、家庭内での児童虐待や「デートレイプ」の概念も、ブラウンミラーの功績によるところが大きい。
にもかかわらず、彼女はある種の生物学的本質主義だと非難された〔たとえば、キャサリン・マッキノンがそのような非難をしている〕。また、アンジェラ・デイヴィスを含む一部の人々は、ブラウンミラーの見解は「人種差別的な考えに貫かれている」と述べ、1955年に白人女性をレイプしたとして告発されリンチされた黒人ティーンエイジャー、エメット・ティルについて取り上げた同書の節に言及し、それは人種差別であると示唆した。たしかにブラウンミラーは、ティルがレイプで告発された女性に向かって口笛を吹いたせいで死に至ったとしており、この事件の責任を部分的にティルに帰しているように見える。一方、右翼のコメンテーターたちは、すべての男はレイプ犯だとブラウンミラーが主張しているとして彼女を非難した。
1935年、スーザンは一人っ子で、販売員であった父サミュエル・ワラフティグと事務員であった母メイのユダヤ系ホワイトカラーの両親のもと、ニューヨークのブルックリンで生まれた。奨学金を得てコーネル大学で学び、マッカーシズムと核兵器に反対する運動を展開する最初の左翼団体「平和のための学生」に参加した。ブロードウェイの俳優を目指したこともあったが、1950年代半ばにはマンハッタンで出版業に従事し、マルクス主義との結びつきを強め、「キューバ公平委員会」や「人種平等大会」に参加した。『ヴィレッジ・ヴォイス』誌でフリーランスの仕事を始め、『ニューズウィーク』誌で調査員として働く。1969年、ニューヨーク・ラディカル・ウィメンズに加わる。それから間もなく、第2波フェミニズムにおける決定的な代弁者として彼女を定義づけることになる、レイプというテーマを初めて本格的に掘り下げた。
1978年、彼女はロビン・モーガンやアンドレア・ドウォーキンらとともに「ポルノグラフィに反対する女たち」(WAP)に参加し、膨大な時間を無給で運動に注ぎこみ、自分の著作からの莫大な収入をも注ぎ込んだ。

ブラウンミラーが『私たちの意志に反して』の前後に発表した著作は、この著作の影に隠れてしまった。彼女の最初の著作は、1968年に黒人女性として初めてアメリカ連邦議会に選出されたシャーリー・チザムの伝記(1970年)である。『私たちの意志に反して』に続いて、『女らしさ』(1984年)〔邦訳は1998年、勁草書房〕、『ウェイヴァリー・プレイス』(1989年)、『ベトナムを見る』(1994年)、『私たちの時代:一革命家の回想』(1999年)が出版された。
2015年、ブラウンミラーはウェブサイト『Cut』のインタビューに応じ、性的暴行をめぐる議論が様変わりしたことを問題視した。これは被害者非難とみなされるのではないかとの質問に対し、彼女はこう答えた。「望まないセックスの状況に追い込まれた若い女性について私が言いたいのは、『危険信号に気づかなかったの? 誰かがあなたのために闘ってくれると期待したの? 二人とも服を脱いでから、『やっぱりいやだ』と言っても遅いのよ」ということです」。
こうした発言は、グロリア・スタイネムをはじめとする第2波フェミニストたちの怒りを買ったが、ブラウンミラーは運動内部での意見の相違について無知なわけではなかった。彼女は、ドウォーキンとともにポルノグラフィを女性の公民権侵害として法的に定義するよう働きかけていたフェミニストの法学者キャサリン・マッキノンと対立し、ポルノグラフィは教育や抗議活動を通じて対峙するのが最善であると考えた。
1980年代には、「些細なことでの分裂」と「運動の狂気」を理由にフェミニズム運動の現役から身を引いたが、それでも女性解放運動に尽力し続け、その運動を現代における最も「驚くべき成功」の一つと評した。
彼女の最後の著書は、グリニッジ・ヴィレッジのアパートの20階のテラスで35年間育てた庭についての『My City High Rise Garden』(2017年)である。彼女は子供も結婚も望まなかったが、「ロマンスとパートナーシップ」を信じていると語り、長年にわたって3人の別々の男性と暮らした。
出典:https://www.theguardian.com/books/2025/jun/03/susan-brownmiller-obituary