「ポルノ業界は私たちが生きようが死のうが気にしない」――ポルノサバイバーの証言

【解説】以下に紹介するのは、ポルノ産業に2年間いたポルノ・サバイバーの方の証言で、以下の文献に収録されているものです。Caroline Norma & Melinda Tankard Reist eds, Prostitution Narratives: Stories of Survival in the Sex Trade, Spinifex Press, 2016. 出版社と編集者の許可にもとづいて、ここに紹介します。

ジャン・E・ヴィラルビア

 私は25人もの男たちの体液、唾液、汗にまみれて横たわっていた。私は吐き気を感じ、全身が痛み、汚され、すべての感情を失っていた。私の一部はその日死んだ。私の魂は、私の体を買った男たちによってズタズタにされたのだ。

 私がポルノと売買春という同じ産業に入っていったことは、3人の子どもを養わなくてはならないという絶望的な状況によるものだった。私は子供のためになら何でもするつもりの困窮したシングルマザーだった。初めて臨んだポルノ撮影は、違法ポルノを制作していた「センセーショナル・ビデオ」という会社で、2006年に米国のラスベガスで撮影されたものだ。それはアパートの一室で撮影された。そこは、豪華なセットも、個人の更衣室も、セキュリティーもなく、壁に穴がいくつも空いたボロアパートだった。彼らは私にこれは「テスト撮り」だと言い、それで出演料がもらえるのはラッキーだと告げた。そして、これをやり遂げれば有名になり、大金を稼げると言われた。それで撮影に応じたのだ。1時間で虐待は終わり、私は300ドルを手にした。出口に誘導され、さらなる仕事を約束された時、次の被害者が部屋に入ってきた。帰り道で、胃の痛みを感じながら私が思った唯一のことは、自分の魂を売った値段がたった300ドルだということだった。もう二度としないと誓った。しかしその誓いは守られなかった。

 8ヵ月後、私は同じ状況に直面していた。フルタイムで働いていたにもかかわらず、お金がなかったのだ。元夫から支援を得られないシングルマザーにとっては必要なものが多すぎた。最初の撮影で会った男たちは、私にもっと出演するよう言った。私は自分の中のトラウマを再体験して泣きたくなったが、手っ取り早く入る金が必要だった。

 私が自分のプロフィールを性産業のジョブサイトにアップすると、5分もたたないうちにプロデューサーやエージェンシーと名乗る人々から無数の電話が殺到した。濡れ手に粟で大金が手に入り、すぐに金持ちになれると誰もが約束していた。何人かの性的倒錯者たちからの電話も受けた。そいつらは、私が彼らを虐待したり、未成年の少年とセックスする様子を撮ることができるかと聞いてきた。私はカリフォルニアのコンプタウンにある「タイガー・メディアグループ」という会社のプロデューサーの「単発仕事(gig)」を受けることにした。ホテルに到着すると、私はプロデューサー(ぼろい部屋より、さらにみすぼらしいルックスだった)を紹介されたが、彼は出演者ないし「タレント業」もやっているとのことだった。私は彼と連れの女性の両方を喜ばせることを期待されていた。私は面食らった。男女の絡みだと聞かされていて、男女の絡みとその次に女同士の絡みとは言われてなかったからだ。つまり、当初約束されていた1回分の支払いと同じ値段で2倍の絡みを撮るというわけだ。でも私に何ができようか。彼らは、私がシングルマザーでお金が必要なことを知っていて、そこにつけ込んだのだ。

 プロデューサーは私に身分証明書を見せ、私が理解できない法律専門用語が連ねられたモデル契約にサインするよう言った。私は新参でポルノ制作についてよく知らなかったので、それを無邪気にも税金対策の書類かなんかだと思った。彼にコンドームを使うつもりか訊くと、彼は私の顔前にAIM(性産業向け医療サービス)の検査結果を突き出し、コンドームは使わないと言った。彼は私に性感染症検査について何も尋ねなかった。その虐待が終わったとき、私は痛みを感じ、疲れ、彼らと自分自身にうんざりしていた。そのプロデューサーは半分の金額を私に支払い、残りは小切手を郵便で送るからと言った。私は彼がプロだと思ったので、その言葉を信じた。小切手は送られてこなかった。

 数日もすると、私は大量に酒を飲みはじめ、鎮痛剤を飲むようになった。以前に負った腰の怪我のために横たわっていなければならなかった。とくにポルノの撮影をしなければならない時に強い薬を飲むようになった。ポルノ産業は私にドラッグも提供した。マリファナやアルコールはポルノ・プロデューサーやポルノスターから渡され、私も喜んで受け入れた。私は大きすぎるペニスによる挿入で痛みを感じたくはなかったし、犯されたり口に突っ込まれているあいだも撮影中のカメラに向かってポーズを取るよう言われることによる痛みを感じたくなかった。どの撮影も少なくとも2時間はかかった。撮影中に何度も静止画像を撮ったり(これはうんざりだった)、良いアングルとライトを調整する必要があったからだ。カメラの前で私は貶められていたのに、それを楽しんでいる振りをしなければならなかった。そうしなければ、報酬はゼロだ! 私はヤリマン、娼婦、ふしだら女と呼ばれた。さらに私はBBW(デブ専)というニッチなカテゴリーにいたので、私の体重はいつも搾取と侮辱のネタに使われた。でも私は実際には、体重を減らすなと口を酸っぱくして言われていたのだ。

 私は売春も強制された。プロデューサーは高額を支払う客向けの「プライベート業務」に送り出し、エージェントはそこからかなりの割合のマージンを得ていた。私は自分の人生をコントロールできなくなっていた。ジャンという本当の自分のアイデンティティを失い、ポルノスターであるエリザベス・ローリングスになっていた。

 ポルノ生活に入って6ヶ月後、私は自分のウェブサイトを提供された。ラスベガスでアダルト有料視聴サイトを運営していた一組の夫婦――ディットとダッチ――が、ネットでデブ専のコンテンツを配信するというアイディアを思いつき、その「トップモデル」になってくれないかと私に言ってきたのだ。彼らは、私がもしサイト上で懸命に働けば、経済的な自由を得ることができると約束した。私はもうハードコアの撮影をやりたくなかったので、そのオファーは魅力的だった。ディットは契約書を作成し、すべて私の利益になると説得した。私が弁護士に見てもらってもいいかと言うと、私たちのいわゆる「友情」を持ち出し、罪の意識を抱かせて、すぐにサインさせた。彼は、もし私たちが手切れになった場合には、サイトを削除すると約束した。私はそれで騙された。ドラッグ漬けでアルコール中毒でトラウマだらけの女が騙されないわけがあろうか? いっしょに運営しているサイトとは別に、ダッチが私に性交渉を持ちかけてくるまでに長い時間はかからなかった。セックスに応じないなら、サイトの運営費用を払ってもらうと言ってきた。つまり、私が彼に従わなかったら、彼は経済的に私を破滅させることができたのだ。撮影外でのセックスを強要してきたプロデューサーは彼だけではない。セックスは、プロデューサーたちがよく使う操作方法の一つであった。

 とくに、ヒートウェーブ・ビデオのオーナーであるギャバーというプロデューサーは、人を操る道具としての「便乗セックス」(on-the-side sex)を本当に愛好していた。彼は私に対して、お前のことが本当に大好きで、一番お気に入りのモデルだと繰り返した。彼とセックスを続けることが、安定した支払いを保証するものであるかのように信じ込ませた。さらにギャバーは2006年の「エロチカLA」〔アメリカのロサンゼルスで毎年開催されている、性産業をテーマにした大規模な見本市〕に私のブースを出してくれた。私は「エロチカLA」で初めてブースを持ったデブ専女優となった。彼が求めたときにいつでも「ヤらせる」かぎり、彼は機嫌が良かった。彼は見かけの立派なピンプでしかなかった。ブースを持てばより露出の機会が増えて、より稼げるようになると言われていた。私は糸で操られた操り人形だった。

 時が経つにつれて、希望がないという思いと自暴自棄の気持ちが大きくなり、私は死にたいと思うようになっていった。眠りについた後、二度と目覚めなければいいのにと思っていた。毎日、浴びるようにお酒を飲まないではいれなかった。自分がひどい母親であることがいやでいやでしょうがなく、この時ばかりは現実から脱け出そうと必死になっていた。虐待と痛みがとてもひどく、ついに神経が耐え切れなくなって救急搬送された。サイト運営者であるダッチに、もうこれ以上続けられないと伝えると、地獄の釜のフタが開いたような大騒ぎになった。彼の脅しはいっそうひどくなり、サイトを削除することを拒否した。私はダッチに何度も口頭での約束のことを持ち出したが、彼は笑い飛ばし、法廷で費やす金なら何千ドルもあると告げた。その一方で私は破産状態だった。

 すっかり希望を失い、自殺願望に囚われた私は、ひざまずいて泣きながら神に助けを求めた。何時間か涙のお祈りをした後、答えを求めてインターネットを開いた。ウェブ検索で「ポルノ ヘルプ」と入力すると、シェリー・ラベン〔アメリカの元ポルノ女優で、引退後に敬虔なクリスチャンとなって、ピンククロス財団を設立し、反ポルノ活動を展開〕のサイトが見つかった。私は彼女に連絡を取り、これまでのことを伝えた。まもなくして彼女は神からの励ましの言葉と、私と子どもたちが食いつなぐための商品券、そして私の住む地域で、私の回復のための支援情報を送ってきてくれた。彼女は私がかつてのキリスト教への信仰に戻るのを助けてくれた。もちろん、すべてが順調だったわけではない。2008年の4月、とても体調が悪かったが、救急病院に行くのは気が進まなかった。自分の病気が何なのかを知るのが怖かったからだが、診察の結果、クラミジアとヘルペスであることがわかった。自分の世界全体が崩れたように感じた。その産業から抜け出すために正しいことをしたにもかかわらず、今になってこれなのか? 毎月AIMの検査を受けていたから自分は安全だと思っていた。

 私がポルノ産業から抜け出して今年で8年になる。経験した痛ましい記憶を再体験しなければならないのは容易なことではないが、私は数えきれないほどの反ポルノ会議を主催し、自分の経験を語り、ラジオやテレビ・インタビューを受けてきた。私はポルノ幻想に対する真実を告げることをけっしてやめない。私は25人の男に集団レイプされた作品を含め、40以上のポルノに出演し、自分自身のサイトを含め20以上のポルノサイトに参加し、3種のポルノ雑誌に載った。ポルノの中の女性たちはポルノ会社に利益をもたらし続けるだけの使い捨て商品である一方で、ほとんどの出演者は生活のやりくりにさえ苦労している。私はみんなに真実を知ってもらいたいと思っている。ポルノ会社は人間の価値などどうでもいいと思っている。彼らはポルノに出演する女たちが生きようが死のうが気にしないのだ。

※ジャン・ヴィラルビアは2年間ポルノグラフィに関わり、助けを得られる前まで自殺を考えていた。現在、8年経って、彼女は米国のピンククロス財団で働きながらファミリーセラピーの修士号のために勉強をしている。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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