【解説】本稿は、オーストラリア在住の性売買サバイバーでアボリショニストのローズ・ハンターさんが最近発表した文章の全訳です。オーストラリアのほとんどの州では売買春の完全非犯罪化ないしそれに近い政策が採用されており、売買春大国の一つとなっていますが、その中で比較的ましなのが南オーストラリア州です。この州において、野党の自由党を中心に、北欧モデル立法が州議会に提案されています。もしそれが可決されれば、オーストラリアで最初の北欧モデル法となるだけでなく、アジア・太平洋地域での最初の北欧モデル法となります(ただし、韓国ではそれに類似の方がすでに制定されています)。
P.S. その後、残念ながら、議会の投票でわずか1票差で、北欧モデル法案は否決されました。
ローズ・ハンター
『ABC』2024年1月22日
性産業に対する「北欧モデル」のアプローチを提案する法案が、2024年初頭に南オーストラリア州議会で採決に付される。この法案は、ニコラ・チェントファンティ野党第一党党首が主導している。
現状では、セックスの販売と勧誘は南オーストラリア州では違法である。北欧モデル(平等モデルとも呼ばれる)は部分的な非犯罪化システムであり、セックスを売る者(主に女性)は免除されるが、他人のためにセックスを調達する者(ピンプ)、第三者の利得者(売春店経営者)、セックスに金を払う者(主に男性)は罰せられる。北欧モデルはまた、性産業からの離脱を望む人々への支援、すなわち離脱プログラムも提供している。
この法案には賛否両論がある。性売買のいかなる種類の非犯罪化にも反対する人もいる。しかし、北欧モデルに対して最も激しく反対しているのは、完全非犯罪化に賛成する人々である。現在、オーストラリアでは完全非犯罪化の立場が大きな力を持っている。ビクトリア州、ニューサウスウェールズ州、ノーザン・テリトリー準州では完全非犯罪化が法制化されており、2024年にはクイーンズランド州議会にも完全非犯罪化法案が提出される予定だ。完全非犯罪化は、特に左翼界隈では文化的にも支配的である。
完全非犯罪化と「北欧モデル」との比較
私は性産業のサバイバーだ。2022年に私は、カナダのこの業界で過ごした最初の2年間についての回顧録をオーストラリアで出版した。私が受けた最も攻撃的な反応は、私の性産業での否定的な体験の数々、つまり性産業は「他の仕事と同じ」という完全非犯罪化のマントラと矛盾する体験が語られているという理由で、私の本を真っ向から否定する人たちからのものだった。
私の経験では、性産業は普通の仕事ではなかった。たとえ性産業を「仕事(ワーク)」と呼ぶとしても、それが「容認できない仕事の一形態」であることを認めるべきだと主張するミーガン・タイラーに私は同意する。
完全非犯罪化を支持する中心的な論拠のひとつは、女性にとってこの業界が安全になる、あるいは少なくともより安全になる、というものだ。完全非犯罪化論の主張するところでは、この業界が女性にとって安全でないのは、その仕事が本質的に安全でないからではなく、犯罪化されていることと(そのことゆえに)スティグマが付随しているからだと主張する。他方、北欧モデルの支持者たちは、性産業は女性に対する暴力の一形態であり、そのため、法的地位がどうであれ、そもそも女性にとって安全でないと主張する。北欧モデルの支持者たちはまた、性産業は女性抑圧の「原因と結果」であり、女性にとって有害であると主張する。すべての女性の地位は、私たちの一部が性的用途のために買われたりレンタルされたりするという事実によって影響を受ける。
(この記事では特に「女性」について言及するが、それは性売に携わっている人々の圧倒的多数を女性が占めているからである。しかし、北欧モデルは買い手と売り手の性別に関係なく、等しく適用される。)
北欧モデルの支持者たちは、すべてではないが多くの場合、性産業の「廃止論者(アボリショニスト)」である。つまり、私たちは、この特定の「産業」の存在しない世界を望んでいるのだ。フェミニスト学者で活動家のジュリー・ビンデルはこう書いている。
「アボリショニストには目標がある。グローバルな性売買に終止符を打ち、女性も男性も子供も買春されない世界、つまり性(行為)が売買も仲介もされない世界に住むことだ。なぜこのようなことが、これほど多くの人々にとってクレイジーに聞こえるのだろうか?」
それと同時に、北欧モデルの支持者たちは、業界の規模を縮小するという、より現実的な目標も強調する。性産業の規模縮小とそれに伴う被害の軽減は、北欧モデルが性産業の調達者と購入者に課す罰則と、離脱プログラムの提供を通じて達成される。北欧モデルと完全非犯罪化との決定的な違いの一つは、後者が、第三者にセックスを調達する者(一般に「ピンプ」と呼ばれる)を非犯罪化しつつ、彼らを「マネージャー」など、より不快感の少ない言葉で「再ブランド化」していることである。
北欧モデルはスウェーデンで1999年から実施されており、同様の制度は現在、ノルウェー、アイスランド、アイルランド、北アイルランド、イスラエル、フランス、カナダでも施行されている(カナダでそれが施行されたのは、私が業界から足を洗った2014年以降のことだ)。スウェーデンでは、北欧モデルの導入以降、性産業の市場規模は大幅に縮小し、法律に対する国民の支持は高まっている。さらに、人身売買業者は同国の性産業市場を「見込みがない」と感じているため、スウェーデンに来ることを躊躇している。
北欧モデルのもう一つの側面は、性産業がその中の売り手(やはりほとんどが女性と少女)に与えている被害について、世論を教育することである。北欧モデルは買春を処罰の対象にしているが、それは男性の買春者を逮捕することが目的なのではなく、むしろ「何よりも買春を抑止する」ことを目的としているからだ。つまり、性的利用のために女性や少女をレンタルすることに倫理上の葛藤を覚え、もはやそれが適切でないと考えるようになる、そういう男性を増やすという発想である。北欧モデルのさまざまなキャンペーンはこのアプローチをとっている。たとえば、ノルディックモデル・ナウのキャンペーン「クールな男はセックスを買わない」がある。エビデンスによれば、スウェーデンでは社会的態度のこのような広範な変化がすでに起こっている。
北欧モデルの支持者と完全非犯罪化の支持者とのあいだの意見の相違はきわめて大きいが、いくつかの共通の土台を特定することは不可能ではない。たとえば、どちらの側も売り手の女性を犯罪者にしたくないし、どちらの側も性の売り手の利益を最優先していると主張している。彼女たちが安全であること、あるいはより安全であることを望んでいるのだ。さらに、性産業に従事する女性たちがスティグマにさらされていることは双方とも認めており、その状況を悪化させたいとはどちらも考えていない。
にもかかわらず、性産業について否定的なことを言うことは、性産業で働く女性たちについて否定的なことを言うこと、つまりスティグマ化することと同じだという考えが、一方的に宣伝されてきた。しかし、それは支持できない。もし私が性産業で働いた経験を語り、他の人がその語りをスティグマ化だと感じるなら、その人が念頭に置いているのは、その中の女性たちではなく、性産業の方ではないのか?
誰の意見に耳を傾けているのか?
私は、性売買の中の女性たちのことを心配している善良な人々が、この議論のどちらの側にもいると信じている。しかし、配慮するとは、耳を傾けることでもある。しかし、現在のオーストラリアの文化的風潮に見られるのは、性産業に従事する一部の女性たち――すなわち、完全な非犯罪化を主張する活動家や、性産業について「肯定的」な発言をする女性たち――の意見にのみ耳が傾けられ、その意見のみが報道されていることである。
彼らは、性売買サバイバーをはじめとして、性産業に否定的な視点を提供する女性たちの証言を無視しており、その点は際立っている。
私が売春店にいた頃、メディアの誰からも私の考えを聞かれることはなかったし、完全非犯罪化を推進する活動家の知り合いがいた記憶もない。それどころか、仕事をするために精神的に自分をシャットアウトし、お金で自分を慰めようとし、集会やデモ行進に参加するどころか、次に売春店に行かなければならないときまで、売春店のことを考えないようにしていた。私の知るかぎり、ほとんどの人が性売買から抜け出したいと思っていた。
性産業サバイバーが提供できるもの
私の本が出版されて以降、何度となく、私にはこの議論に貢献できることはないと言われた。その理由のひとつは、性売買サバイバーである私にはもはや業界に何の利害関係もない、というものだ。ある意味、これは当たっている。たしかに、私は性産業を規制する新しい法律から直接影響を受けることはないだろう。しかしこれはあまりに狭い見方だ。理由はいくつかある。そのひとつは、サバイバーには自分の経験を振り返り、時間によってのみ得られる洞察を得る機会があるということだ。私たちが覚えているのは、くちゃくちゃの紙幣だけでない。この業界が長期的に私たちの人生に何をもたらしたかを、私たちは記憶にとどめている。
さらに、年齢を重ねた私たちは、20代の頃に信じていたことが必ずしも真実でなかったことを身に染みて理解している。私たちが若かったころに耐え忍んできたものが虐待であることがわかるようになっている。私たちが虐待を甘受してきたのは、それが文化によって推進されてきたものだったからであり、自分が自己破壊的な傾向に陥っていたからであり、自分がもっとましな扱いを受けるに値するとは知らなかったから、あるいはその状況から抜け出すすべを知らなかったからである。私たちは現在、そうしたパターンを理解している。より大きな構図が見えるようになっている。
私たちの話にだけ耳を傾けろと言っているのではない。私が言いたいのは、サバイバーも含めた私たち全員の話に耳を傾けてほしいということだ。
過去の人生からの反省
表面的には、私は性産業において他の多くの人よりも「ましな」状況にあったように見えた。人身売買されたわけではなく、働き始めたのは未成年の時でもなく、路上ではなく店内で働いていたし、業界にいたほとんどの期間、「フルサービス」(業界の婉曲表現を使えば)の仕事には就いていなかった。しかし、そのような相対的にましであったとしても、一度この業界に身を置くと、そこから離れることはほとんど不可能であることがわかった。
私の体験は本の中で述べた。ここでは、いくつかの重要なテーマを取り上げたい。私の経験では、この業界はトラウマを抱えた女性でいっぱいだった。私がよく耳にし、私自身も使っていたセリフは、「単なる自分の体」というものだった。この言葉が表わすセルフケアの欠如に疑問を抱いたことはなかった。私たちの多くが性産業に足を踏み入れるのは、少なくとも過去のトラウマ体験が虐待を自分自身から解離させる「能力」を私たちに与えているからだ。性産業に入る時点ですでにトラウマを負っており、性産業によってさらにトラウマを負わされる。その結果、さらに足をとられ、抜け出すのが非常に難しくなる。私の経験では、売春店の待合室はこういう悪循環に陥っている女性たちでいっぱいだった。そして、私たちを買いに来る男たちは、故意であろうとなかろうと、この事実を利用しているのだ。
性産業が女性にとってトラウマ産業であると私が言うとき、別に最悪の買春者によるトラウマについて話しているのではない。性産業で女性が日常的に経験するトラウマについて言っているのだ。私は売春店でレイプされたが、その後、頭から離れなかった最も強烈な苦痛は以下のような思いだった。このレイプは、私がこの売春店においてペニスで貫かれる他のすべての場合と、本当に違っていたのだろうか? 何と言っても、どれもみな自分の望むものではなかった――ただの一つもだ。
これは別の言い方をすれば、「私の同意は繰り返し買われた」ということであり、一部のフェミニストや多くのサバイバーが性産業は「金を払って行なわれるレイプ」だと言うときの意味である。人(特に女性)が望まないセックスをする状況が他にもあること(たとえば、パートナーをなだめるため)を認識しているので、私はこの言明には慎重なこともある。しかし、それを毎日何度も、しかも毎回違う男性と、しかも、金が払われなければそんな行為をするなど夢にも思わないような相手、ほとんどの場合、肉体的にも精神的にも嫌悪感を抱くような相手とすることを想像してみてほしい。望まない手で体をまさぐられ、つねられ、望まない口で全身を舐められ、望まないペニスを口や膣に入れられることを想像してみてほしい(通常の売春店のシフトでは、何時間も、そして何度も何度もそうされるのだ)。
それに加えて、楽しんでいるふりをする必要がある。これは、ほとんどの買春者が明示的に、あるいは暗黙のうちに要求することであり、それに応じなければ暴力を振るったり、「店側」に文句を言ったりする者もいる(これは私の経験であり、学術調査でも裏づけられている)。肉体的、精神的、感情的な負担を考えてみてほしい。このような労働形態をあなたは受け入れられるのか? 完全非犯罪化を推進する人々は、性売買をより安全なものにしたいと考えているようだが、このトラウマを防ぐことはできない。なぜなら、このトラウマはこの仕事の本質だからだ。
もちろん、この業界には、さまざまな理由から、仕事を控えめにしたり、買い手を選んだりすることで、トラウマを軽減することのできる女性も少なからずいる。このような女性たちはやたらメディアで取り上げられ、世間には彼女たちの状況がこの業界の女性の標準であるかのような誤った印象を与えている。しかし、性売買の中のほとんどの女性たちにとって、これは現実ではない。社会政策というものは、例外ではなく、大多数の者を参考にして決定されるべきではないだろうか?
先住民の女性や有色の女性たちも性売買の中におり、しかも大きな割合でいる。住居のない女性、家庭内虐待を経験している女性、依存症に苦しむ女性たちもまた、性売買の中に大勢いる。このことは、メリッサ―・ファーリーによる批判的アンソロジー『売春、人身売買、トラウマティック・ストレス』などで実証されているし、私が観察し経験したことでもある。私はアルコール依存症と鎮静剤依存になった。暴力的な男と交際していた時期もあった。多くがそうだった。性産業でモノのように扱われることに慣れきってしまった私は、個人的な人間関係にも同じような状況を求めるようになった。繰り返しになるが、完全非犯罪化は、この仕事の本質を変えることができないので、このようなことは何一つ変えることができない。
そして、絶え間ないストレスがあった。病気に対する不安もあった。コンドームの効果は完全ではないし、「ステルス・オフ(こっそり外す)」しようとする買春者もいる。私がこの業界にいたころは、そんな言葉は一般的ではなかったが、それでもそういうことはあった。完全非犯罪化では、そういうことも変えられない。自分の体を他人の体液に触れさせ、病気の危険にさらす仕事は、はたして許される仕事だろうか? しかも何度も何度も。それをどうやって安全にできるのか? 私が売春店で働いたとき、事前にランプの下でいちおう買春者のペニスをチェックすることになっていた。だがこれは完全な解決策ではない。なぜなら、最悪の問題〔性病など〕はぱっと見でわからないものだからだ。また、買春者ではなく女性に対する強制検査では、やはり解決にならない。
(ちなみに言っておくと、私や北欧モデルの支持者たちは、性産業を「セックスワーク」とは呼んでいない。なぜなら、この言葉は、この業界で働く人々にとっての過酷な現実を正当化し、隠蔽するものだからだ。同様に、北欧モデルの支持者たちは、買春者を指すのに「クライアント(顧客)」という言葉を使わない。なぜなら、「クライアント」という言葉は、この産業でサービスを買うことが、弁護士やマーケティング・コンサルタントからサービスを買うようなものであると思わせるからだ。そういうものではないことを証明するために、この記事が少しでも役に立てたらと思う。)
私がこの業界に長くいればいるほど、他の雇用の選択肢はなくなっていった。私の自尊心は急速に落ちていった。私は36歳で死ぬだろうと確信していた。だから、自分のために何らかの未来を築こうとすることに、何の意味もないと感じていた。今でこそ、未来を前もって切り縮めることはPTSDの症状の一つだとわかっているが、当時の私にはそれがわからなかった。
ようやく業界を離れたとき、人生はさらに悪化した。私はアルコール中毒と依存症にさらに陥り、私を殺してくれそうな別の暴力的な男と関係を持った(実際、彼はもう少しで私を殺すところだった)。同じ性売買サバイバーであるレイチェル・モランが回想録で書いているように、「売買春をやめることで、私は売買春に明け暮れる毎日から、売買春から立ち直るのに明け暮れる毎日に替わった」。
私が経験したトラウマを乗り越えることができなかったのは、それに名前をつける言葉がなかったからだ。一般的な「セックスワーク」イデオロギーから私が受け取ったメッセージはすべて、この仕事は問題ない、「他の仕事と同じだ」というものだった。では、私が陥っている問題はいったい何なのか? 私は完全な非犯罪化イデオロギーによってガスライティングされていたのだと思う。
私が北欧モデルを支持する理由
私が北欧モデルを支持する理由は、自分が性産業に身を置いていた10年間、離脱サービスを目にしたことがなかったし、自分がそのようなサービスを受ける資格があるかもしれないとも夢にも思わなかったからだ。南オーストラリア州で今年採決に付される予定の法案では、離脱サービスの一環として、教育や訓練、宿泊施設、雇用、医療サービスや法的サービスへのアクセスなどの支援が提案されている。もしこのようなプログラムが以前から存在していたなら、それは私にとっては計り知れない助けになっただけでなく、私には性産業以上の価値がある――なぜなら法律がそう定めているのだから――という重要な共感的メッセージを受け取ることができただろう。
私が北欧モデルを支持するのは、私の経験上、性産業は女性にとって身体的にも心理的にも安全なものにそもそもなりえないからだ。性産業は、身体的にも心理的にも、女性にとって安全な仕事ではないし、そうすることもできない。性産業が受け入れられる仕事だと言うことは、女性や少女をガスライティングすることだと思う。
私が北欧モデルを支持するのは、この社会を私の望む社会にしたいと思うからだ。すなわち、不利な立場に置かれトラウマを負った女たちを男たちが性的に利用することは許されず、法律でも容認されない、そういう社会だ。
私たちはどのような社会を望んでいるのだろうか? 私たちは、私たち女性や少女が性産業で搾取されるべき存在ではないこと、それよりも価値ある存在であると考え、そう定めることができる。法律を制定することで、社会の態度を変えることもできる。他の国々はすでにそうしている。私は、南オーストラリア州が、女性と少女の福祉を優先し、北欧モデルを制定するオーストラリアで最初の州となることを心から願っている。