【解説】これは、2024年5月18日にメキシコシティで開催された Hombres por la Equidad 主催のフォーラム「左翼とマチズモ」でなされたロバート・ジェンセンさんの報告の編集版です。ジュリー・ビンデルさんのサブスタックから翻訳。筆者のロバート・ジェンセンさんは、男性としてポルノ・売買春に反対する運動を長年にわたって行ない、環境問題にも取り組んでいるアメリカの左派の学者です。このサイトでも彼の記事をすでに翻訳紹介しています。ここで指摘されていることは日本でもまったく同じで、世界中どこでも左翼は、きわめて退行的で全体主義的な状況にはまり込んでいることがわかります。
私が政治化し、ラディカルになったのは1980年代末の30歳のときで、左翼政治とラディカル・フェミニズムを同時に取り入れた。この2つの原理の間に緊張関係があったにもかかわらず、私は依然として両方にコミットし続けている。
話を1980年代に戻そう。それまでは、ウォーターゲート事件/ベトナム戦争後の時代で、新聞記者としてのキャリア、そして私の風変わりな性格が生んだと思われるかなりのシニシズム〔冷笑主義〕が重くのしかかっていたとはいえ、私はごく普通のアメリカ人リベラルだった。皮肉なことに、左翼政治とラディカル・フェミニズムは、世界の危機が私が考えていた以上に解決困難なものであることを納得させると同時に、それまで私が陥っていたシニシズムを治してくれた。
私は、人間は単に物事を台無しにする厄介な生き物だと考えて怠惰な道を歩むのではなく、種々のイデオロギーや制度がどのように社会を形成し、人々に影響を与えているのかを問うようになった。もちろん、人間は厄介な生き物であり、物事を台無しにすることは避けられない。しかし、より良くなろうと努力し、私たちが与えるダメージを最小限に抑えることは価値があることだと信じているし、イデオロギーを批判的に分析し、制度に異議を唱えることができれば、その可能性はより高くなる。
そう考えた私は、ラディカル・フェミニズムと左翼政治とを相互に対立するものではなく、相互に補完するものだと考えていた。しかしすぐに、すべての人が同意しているわけではないことを知った。なぜ私はそう考え、なぜ他の人はそう思わないのか。
ラディカル・フェミニズムの家父長制批判も、政治的左翼の資本主義・帝国主義批判も、権力のシステムと構造についての分析を提供している。私が政治の世界に足を踏み入れた頃には、これらの政治運動はいずれも白人至上主義への批判を含むまでに拡大しており、私がこれらのプロジェクトで出会ったほとんどの人は、生態系の劣化の脅威についても理解していた。正義と持続可能性に対する最も深刻な脅威に正直に向き合える総合的な政治は可能だと思えたし、その政治を追求することが有意義な人生への道だと思えた。
このような主張には、権力のシステムと構造の役割に対する認識が決定的である。個人が時に行なう誤った選択や、一部の政治家の利己的な腐敗に焦点を当てるのではなく、急進左翼の枠組みは、そうした選択や腐敗を形成する力を理解するのに役立った。もちろん、個人は良い選択をするよう努力すべきだし、政治家にも公益のために尽くすよう求めるべきだ。しかし、効果的であるためには、権力やイデオロギー、システムや制度を考慮する必要がある。
要するに、この政治的な目覚めが、現在の支配的文化の伝統的な常識を疑うきっかけになったのだ。その常識とはこうだ。男性支配と白人至上主義はほとんど過去のものであり(女性や非白人は文句を言うのをやめるべきだ)、資本主義における競争はイノベーションを促進するために必要であり(残念だが、貧困層はなくなりはしないのだ)、アメリカン・パワーが世界の安定を保つのであり(結局のところ、世界は物騒であり、警官が必要なのだ)、高エネルギー/ハイテク社会は環境を浄化する方法をいずれ見つけるだろう(人口と消費を減らす必要はない)、と。
これらすべての面で支配的なドグマに挑戦することは、相互に整合的であるように思えた。しかし私は、左派のコンセンサスを得るのはそう簡単ではないことを学んだ。もちろん、すべての政治運動は対立しうるが、私はすぐに、ラディカル・フェミニストと多くの政治的左翼との間に深い溝がある事実にぶつかった。
左翼がフェミニズムを受け入れていないことを私が知ったのは、私が反ポルノ活動に参加したことがきっかけだった。多くの男性と同様、私も子どもや若かった頃にポルノを利用したことがあったが、常に不安を感じていた。性的搾取産業(売買春、ストリップ、マッサージパーラー、エスコート売春、ポルノグラフィを含む)に対するラディカル・フェミニストの批判は、知的説得力があるだけでなく、個人的にも納得できるものだった。家父長制的な男らしさの概念に従って生きるという「男である」ために奮闘するのではなく、まっとうな人間になろうとする道をラディカル・フェミニズムに見出したのだ。
しかし、そのアプローチは左翼の多くには受け入れられなかった。ほとんどの左派は、権力のシステムや構造を分析することにこだわるのではなく、突然、個人の選択の擁護者となった。男性が性的快楽のために性的に客体化された女性の身体を売買するのは、必ずしも搾取ではなく、むしろ個人の自由な選択だと言い出した。通常、左翼は人々が選択をする際の条件に焦点を当て、いかに権力がそのような条件を作り出し、イデオロギーが制約の厳しさをあいまいにしているかに焦点を当てるだろう。どうやら、男性の性的快楽が危機に瀕するときには、このアプローチは無効になるようだ。
やがて、ラディカル・フェミニズムと男尊左翼(male-dominated left)との対立は、リベラル/左派フェミニズム内部の対立へと拡大した。まず、反検閲フェミニズムと呼ばれるものを提唱する女性たちがラディカルな分析に異議を唱えた。それは激しいものだったが、それでもたいていは生産的な議論を引き起こした。しかし、明確にポルノグラフィを支持するフェミニズムが台頭し、やがてそれがアカデミックなフェミニズムや左派のあいだで支配的になると、男性が性的快楽のために性的に客体化された女性の身体を売買するというラディカル・フェミニズムの分析は周辺に押しやられた。
ラディカル・フェミニストの分析が間違っていると判明していれば、それでもよかっただろう。しかし、そうではなかった。実際、ポルノ産業が拡大するにつれて、性的にあからさまなもの(一般にハードコアポルノと呼ばれるもの)の制作や使用によって生じる被害についてのラディフェミの分析が的を射ていたことがますます明らかになった。
アンドレア・ドウォーキンをはじめとするラディカル・フェミニストたちが1970年代にポルノ業界のミソジニーを批判し始めたとき、そこでのポルノ画像は今日の基準からすれば比較的おとなしいものだった。しかし、アンドレアをはじめとする批判者たちは、男性支配と白人至上主義のイデオロギーが、日常的な女性搾取によって生み出されたポルノ画像のうちに繰り広げられているのを目の当たりにした。そうしたフェミニストたちがポルノ業界のこうした特徴を最初に分析し、その特徴が時代とともに強まってきているのだとしたら、そうしたフェミニストたちの分析を真剣に受け止めることは理にかなっているのではないだろうか? 私にはそう思えるが、左派の大半やフェミニズム運動のかなりの部分にとってはそうではなかった。
これが、私がポルノのパラドックスと呼んでいるものである。私が大人になってからというもの、2つの傾向が議論の余地なく存在する。第一に、ポルノはリベラル派や左翼の世界でより広く受容されるようになり、日常的に受け入れられるようになったことである。第二に、ポルノ産業は、かつてないほどあからさまに残酷で女性を貶め、あからさまに人種差別的な画像や映像を生み出していることである。ポルノの生産量が増え、ノーマルなものとなるにつれて、それが描く貶めと暴力は激しさを増している。あるメディア・ジャンルがますますミソジニー的、人種差別的になると同時に、なぜそれがますますリベラル派や左派に受け入れられるようになるのだろうか? 日頃から性差別や人種差別を批判している進歩主義者たちが、なぜポルノには合格点を与えるのだろうか?
一つ答えはこうだ。性的搾取産業に対するこのラディカル・フェミニストの分析は、説得力はあるがクールではないため、無視されてきた。それはヒップ(いけてる)ではないのだ。クールでヒップな人々が信じるようなものではない。そして、クールでヒップでありたいと思わない人はいない。ラディカル・フェミニストの批判は、家父長制的なセクシュアリティは本当にクールでもヒップでもなく、受け入れがたいものだと指摘しているからだ。
だがもっと深刻な答えがある。性的搾取産業は家父長制的であり、家父長制と戦うのは難しい。家父長制は抑圧的な社会システムの中で最も古く、人類史上数千年の歴史がある。家父長制的な考え方や行動様式は、日常生活の織物に織り込まれているため、見極めることは難しく、ましてやそれを根絶することはもっと難しい。フェミニストの組織化は、レイプ、ドメスティック・バイオレンス、セクシャル・ハラスメントに対する法律の改善など、いくつかの変化を余儀なくさせた。しかし、男性支配の核心、特に男性による女性への性的搾取を攻撃することは、激しいバックラッシュを生む。
ラディカル・フェミニストたちはこうした批判によって周辺化されてきたが、支配的なリベラル・フェミニストたちは通常、性的搾取産業への批判が反フェミニズム的であるとは示唆しなかった。しかし近年、トランスジェンダリズムの問題をめぐって、ラディカル・フェミニストとリベラル/左派系のフェミニストとの分裂はさらに激しくなっている。ラディカル・フェミニストの多くは(すべてではないが)トランス運動のイデオロギーに異議を唱えており、そのためトランス支持派のフェミニストの中には、ラディカル・フェミニストの主張を否定するだけでなく、トランス・イデオロギーを受け入れない者は本当のフェミニストではないと宣言する者も出てきた。リベラル/左派系フェミニストのあるジャーナリストは、トランス政策に不安を抱いたりトランス・イデオロギーを十分に支持しないフェミニストは、間違ってはいてもフェミニストであることに変わりはないが、トランス・イデオロギーを批判するラディカル・フェミニストはフェミニズム運動の一部とみなされるべきではないと述べた。彼女は、TERF(トランス排除的ラディカル・フェミニスト)という言葉は不正確だと主張した。「私は、彼女たちが実のところフェミニストだとは思わないからだ」というのだ。半世紀にわたって家父長制との闘いの最前線に立ってきたラディカル・フェミニストの女性たちは、トランスジェンダリズムのイデオロギーに異議を唱えているというだけで、この観点からすれば、もはやフェミニストではないとされているのである。
私の近刊予定の著作『討論可能――厄介な話題について正面から語る』では、トランス活動家が追求している政治は、知的に支離滅裂で、反フェミニスト的で、エコロジカルな世界観に反するものだと論じている。その議論については同書で詳しく述べているが、ここでこの問題を持ち出しているのは、家父長制の厳格で抑圧的で、反動的なジェンダー規範の問題に対するトランスジェンダー運動のリベラルで個人主義的で、医療化された対応を受け入れるとき、左派は自らの分析様式と理論的アプローチを放棄していることを改めて指摘するためである。
もちろん、私は間違っているかもしれない。私たち皆がそうであるように、私も以前は間違っていた。知的生活や政治生活において、私たちは人々が自分の考えを主張することを期待している。個人的なアイデンティティや政治的帰属によって、真実を決定する権限は誰にもない。私たちが他者の分析に異議を唱えるとき、彼らに自分の立場を変えることを検討する理由を提供するのが普通だ。現代の左翼に関して私が経験したことで特徴的なのは、性的搾取産業やトランスジェンダリズムの分析を見直すべき理由をわざわざ提示してくれる人がほとんどいないことだ。その代わり、私が多くのフェミニストや左翼から言われ続けてきたのは、おまえの立場は間違っている(どうやらそれは自明のことのようだ)、その間違っている理由を示すのは自分たちの仕事ではない(私は自分で自分を教育しなければならない)、そしておまえが立場を変えるまでは、ほとんどのフェミニストや左翼の空間ではけっして歓迎されない(私は数え切れないほど敬遠され、怒鳴られてきた)、ということだった。
もちろん、誰も私に個人的に関与する義務はない。しかし、性的搾取産業に対するラディカル・フェミニズムの批判、すなわち、性的搾取産業は、男性が性的快楽のために性的に客体化された女性の身体を売買するものだとする批判が、説得力のある説明であることを何十年にもわたって実証してきた。そして、トランスジェンダー運動のイデオロギーに対するラディカル・フェミニストの批判もまた、家父長制的ジェンダー規範に対する批判を提供しているだけでなく、性別違和で苦悩している人々に対する思いやりのある代替案をも提供している。
ラディカル・フェミニストを受け入れるかどうかは別として、誰もが彼女らの主張に注意を払うべきだと思う。左派陣営にいる者はとくにそうすべきだ。進歩的な運動が、リベラルな個人主義を優先して、権力のシステムや諸構造の分析を放棄するならば、必要とされている根本的な変革の希望を断念することになるだろう。
出典:https://juliebindel.substack.com/p/radical-feminism-and-the-failures
「ロバート・ジェンセン「ラディカル・フェミニズムと左翼――左派はなぜ失敗したか」」への1件のフィードバック