キャロライン・ノーマ「ロバート・ジェンセンの最新著作とその皮肉な運命」

【解説】以下は、キャロライン・ノーマさんによるロバート・ジェンセンさんの最新著『討論可能』の書評論文です。ロバート・ジェンセンさんの論文はすでにこのAPP国際情報サイトでもいくつか紹介しています。「ラディカル・フェミニズムと左翼――左派はなぜ失敗したか」(2024年5月24日)「男性とポルノグラフィ――コントロールの快楽と幻想」(2023年5月17日)などです。

キャロライン・ノーマ

Robert Jensen, It’s debatable: Talking authentically about tricky topics, Olive Branch Press, 2024, 173pp.

 ロバート・ジェンセンの最新作『討論可能――やっかいな諸テーマに関して真面目に語る』が物語る皮肉は、同書の最も印象的な点であり、どの書評も最初に言及するところだろう。本書評でもこの皮肉について触れるが、まず本書とその著者についてコメントしておきたい。この著作がたどった皮肉な運命について十分に理解するには、いくつかの背景知識が必要である。

 テキサス大学オースティン校名誉教授のロバート・ジェンセンは、長年来のラディカル・フェミニズムにコミットしてきた著作家である。『家父長制の終焉――男性のためのラディカル・フェミニズム入門』(Spinifex Press、2017年)をはじめ、ラディカル・フェミニスト運動の活動や学問研究に参加し、貢献してきた。しかしそれと同時に、環境運動、反人種差別運動、平和運動といった他の進歩的な運動にも関与していた。後に説明するように、本書『討論可能』の議論を生み出したのは、彼の経歴の後者の側面である。

 本書は、ジェンセンの豊富な政治的経験に基づく洞察を、ジェンセンの真摯で真面目な筆致を生かした文体で伝えている。本書は、リベラリズムへの西欧社会のコミットメントが徐々に薄れつつあることに伴って生じている現代の問題に取り組むために書かれたものである。ジェンセンは、本書が扱うこの問題を明確かつ力強い言葉で、次のように要約している。

複雑な世界についての議論は、論争になるに違いないし、必然的に対立につながるだろう。健全な社会では、人々は……議論の必然性を受け入れるだけでなく、それを奨励するだろう。健全な社会では、制度は、……対立をできるだけ生産的なものにするために、対立を管理するためのスペースとリソースを提供する。だがおそらく、私はまだ健全な社会に住んだことがないようだ。(p. 23)

 それにもかかわらず、彼は「私たちは皆、自分自身の中に知的、道徳的、政治的な美徳を培う責任があること」、すなわち「自由に考え、責任をもって発言し、誠実に行動する」ことを強調する。しかし、「その基準を守ることは、個人の努力と同様に集団の努力であることを認識」しなければならない。だから、「友人からだけでなく、敵からも少し助けてもらう必要がある」(p.17)。しかし、「敵と話しながら、友人にも正直になる方法を見つける」のは難しい。ジェンセンにとってそれは、トランスジェンダリズムに関する彼のラディカル・フェミニスト的懸念に対して、環境派、反人種差別、平和運動の界隈にいる昔からの友人たちが抗議し、罰し、石を投げつけてきたときに、特に難しくなった。

 友人たちがそもそも議論に参加しようとしなかったことで政治的連帯に失敗したこの経験が、ジェンセンを本書の執筆に駆り立てた。彼は、「あなたがその議論をするのは間違っているし、私は耳を貸さない」といった類の反応に、「私の知的・政治的人生の過去10年間で、過去数十年間よりも頻繁に遭遇するようになっている」(p.12)。そこで彼は、ジョン・スチュアート・ミルの「議論されない思想はドグマになる」という警告に耳を傾けるよう、左派と右派の双方に働きかけることを思い立った。ジェンセンはこの課題は緊急性を要するものだとみなしたが、それは、「この先にはかなりのカオスが待ち受けており、今日、真のコミュニティの形成と強化がより決定的なものとなっている」(140ページ)からだ。この「かなりのカオス」とは、第6章で述べられている環境上の破局のことである。言いかえれば、ドグマを克服し、人類の未来を確保する真の方法を見出すためには、議論と政治的関与のための集団的能力を強化する必要があるのだ。

 環境サバイバルのグローバルな目標に焦点をあてた本書は格調高いが、第1章「私がどこから来たか」は、それを地上レベルに置き換えたものである。この章におけるジェンセンの個人的な政治的スタンスのモデル化は、社会科学における「研究者の拠って立つ立場(スタンドポイント)」や「ポジショナリティ」論の陳腐な繰り返しから脱却したいと考えている社会学者にとって有益であろう。ジェンセンは、「たとえ自分の仲間が反対するときであっても(おそらくは特にそうである時こそ)、現代的な問題について自分が出した結論に自信を持 って」(p. 11)、「熱心に」提供するべきだという新鮮な認識論的視点を提示している。ジェンセンは、議論において「凡庸だが頑固」である姿勢を提唱している。それは、自分自身が物事を間違える「凡庸な」傾向があることを認識しつつも、長年の思考と関与を通じて到達した見解には「頑固に」固執する姿勢である。彼は言う、「年を重ねるにつれ、頑固であり続けるために物事を掘り下げることと、間違いを認めたくないがために自分の立場に固執することとの違いについて、より明確になってきたと思う」と彼は説明する。「私は自分が正しいやり方で頑固になっていると思いたい」(p.15)。

 彼が「正しい意味で頑固」であるかどうかは、本書の3分の2を読み終え、劇的な展開に遭遇したときに、読者に判断の機会が与えられる。ジェンセンは、「本書の中で私は何度も、『道理をわきまえた人々は意見の相違があっても 』、健全で生産的な会話を続けることができると主張してきた。インターリンク社と私がこの意見の相違を解決した方法は、その一例であると信じている」(p.99)。彼は、同書の出版社であるインターリンク出版が、トランスジェンダリズムに批判的な章(第5章)を入れることを拒否したことについて言っているのだ。しかし、この章が削除されたこと、そしてその代わりに「インターリンク出版はLGBTQIA+の権利を支援してきた長い歴史がある」といううんざりする決まり文句を含む出版社側の言い訳が入れられたことは、この本で称賛されているアプローチに対する皮肉な模範として機能している。この本の中でジェンセンは、異なる政治的意見や敵対する人々との意見の相違に対して寛容で融和的な態度を取る一方で、安易に引き下がったり風向きに左右されたりしない頑固さを提唱している。確かに、出版社が一方的に企画を白紙に戻す(他の出版社は何の考えもなしにそうしている)よりは、妥協が成立した方がましだというジェンセンの見解は正しい。しかし、代わりにジェンセンのウェブサイトに掲載されることとなった第5章を読んだ読者は、意見の相違が実際に解決されたという彼の見解に共感することは難しいだろう。

 「ジェンダーは、制度化された男性支配のために少女や女性を支配する武器である」(p.6)というジェンセン自身の洞察からしても、そう言える。(トランス)ジェンダー問題以外は妥協するというインターリンク出版の姿勢は、まったく予想できたことであり、政治運動は女性の犠牲の上に展開されるべきではないというラディカル・フェミニズムの立場と、左派男性の立場とを分かつ問題を何一つ解決していない。ジェンセンもこのことを理解しており、本書の出版された部分で次のように説明している(p.136)。

多くの左派は、性的搾取産業――ポルノグラフィ、売買春、ストリップ、マッサージパーラーなど、男性が性的快楽のために性的客体化した女性の身体を日常的に売買している業界を、私はこう呼んでいる――が問題になると、リベラルになる〔つまりそれらを許容する立場になる〕。トランスジェンダー・イデオロギーの場合も同様で、左派の人々は、制度化された男性優位の抑圧的なシステムやジェンダー規範よりも、個人の選択の支配を最大化することに重点を置き、こうした問題に対して日常的にリベラルな立場をとっている。

 彼が称賛する討論アプローチは、ラディカル・フェミニズムへの左派男性の関係が問題になると、限界に達することがわかる。本書の運命が示したケーススタディは、男権主義的なセクシュアリティの実践を通じて維持されるジェンダー・ヒエラルキーにコミットするリベラル左派の絶対主義的態度を何も解決していない。

 第5章の削除は実に残念なことであり、そのためにラディカル・フェミニストは有益な政治的洞察を奪われている。同章はたしかにジェンセンのサイトにアップされているが、それ単独ではうまく機能していない。というのも、トランスジェンダリズムに対するその興味深い批判は、この本の他の諸章の議論とも深く関わっているからだ。ジェンセンは、「トランスジェンダー・イデオロギーがもたらす知的混乱と反フェミニズム的帰結に加えて、トランスジェンダーの身体概念とエコロジー的世界観との対立を考えるべきだ」(p.12)と書いている。この「エコロジー的世界観」は、人種差別と環境主義に関する諸章で展開され、現実と、それが私たちに課す限界との折り合いをつけることに私たちが集団的に失敗していること、政治的にも、生物学的にも、物質的にも失敗していることを説明している。

 しかし、『討論可能』の最後の皮肉は、ラディカル・フェミニストがその知恵の究極の受益者であるということだ。本書はラディカル・フェミニスト的に、「進歩」政治の核心にある致命的な矛盾を思い起こさせるために機能している。リベラル派は、理性的な議論、妥協、政治的連合を称揚するが、それらは実は、女性の性的隷属を土台としており、それを維持することを前提としているのである。一部のラディカル・フェミニストは、自分たちの政治的立場はこの左派とほぼ一致していると考えているが、それは、「進歩政治」のこの土台に対するナイーブな理解を示している。このような土台は、第5章が削除されたように、フェミニズムを政治的対話から積極的かつ継続的に追放することを必要不可欠とする。それにもかかわらず、『討論可能』を執筆したジェンセンは、いつの日かリベラリズムがこの要請を乗り超えていくだろうという希望的観測は、称賛に値するものである。本書は、歴史的には時代(解決がまだ達成されていない時代)の産物として位置づけられるだろうが、そこでの議論は、左翼進歩主義とフェミニズムとの関係を将来判断する際の一つの興味深い参照点となるだろう。

出典:Caroline Norma, “Talking ironically about tricky topics: Robert Jensen’s latest book” (21 July 2024)

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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