【解説】以下は、売買春での経験を書いた『ペイド・フォー(私は買われた)』というベストセラー作品の著者であるレイチェル・モランさんの最新の記事です。
レイチェル・モラン
『PSYCHE』2022年6月1日
私の14歳の誕生日の3週間後、父の自殺の数ヵ月後に、統合失調症の母からの虐待から逃れるために家を出た。母の精神状態は悪化の一途をたどっていたのだ。私は、その年の夏にはホームレスになり、その翌年には路上売春をするようになった。22歳で売春から離脱し、24歳で学業に復帰し、翌年にはダブリン・シティ大学でジャーナリズムの学士号を取得した。7年間の売春生活について書いた手記は、英語圏に属するすべての国々で出版され、他の言語にも翻訳された。その間に、私は世界中の見知らぬ人たちから何千通ものメッセージを受け取った。その内容は多岐にわたるが、繰り返し書かれているテーマがある。
私は、売買春のことを何も知らない人たちにこの世界の現実を知ってもらいたいと思ってこの手記を書いた。つまり自分の本を教育手段とみなしていた。売春がどんなものかをすでに知っている人たちに自分の著作がどう受け取られるのか、まったく考えていなかったように思う。だが、驚いたことに、売買春を経験した女性たちからの反響が殺到し、中には涙が出るほど胸に迫る内容のものもあった。忘れられないのは、ある女性が、売春をやめて20年も経って、私の手記を読み、初めて「自分に起こったことを理解できた」と話してくれたことだ。私の手記を読むことで彼女の中に大きな変化が起こり、過去の出来事が新たに明瞭な姿を取り、そして、自分の身に起こったことの政治的意味を認識することができたこと、そしてそのおかげで前に進むためのプロセスを開始することができたのだ。自分の体験について書いたことのこの予想外の側面は、私にとって最大の報酬だった。
これら多くの女性たちの物語は私の心に残っている。売春を華やかでエンパワーするものであるかのように描いたテレビシリーズを見たことが直接のきっかけで売春を始めた19歳のフランス人女性。資金力のあるNGOに言われて「セックスワーク」は正当な仕事先だと信じた20代半ばのオーストラリア人女性。自分の国ではピンプが非犯罪化されているので、法的に認められていることはきっといいに違いないというメッセージを受け取ったと語った20代初めのドイツ人女性。ドイツにいるほぼすべての男性が同じメッセージを受け取ったようで、その結果、大規模な社会的惨事を招いた。ドイツの「定額制」売春店は、ビュッフェ式の食べ放題に相当する性風俗店で、男性は1回の定額料金を払って、1日にできるだけ多くの女性の体を、できるだけ長い時間利用することができる。多くの男たちが、しばしば独身パーティの一環として集団でやってきた。そのドイツ人女性の身体は、最初の1ヵ月で400人から500人の男性に使用された。「仕事」と呼ぶよう言われているこの野蛮な行為の心理的影響が、彼女の中で終わることはけっしてないだろう。
国際労働機関(ILO)が定義するディーセント・ワーク(まっとうな仕事)とは何かを調べ、売春の現実およびその結果と比較することは有益である。要約すると――「ディーセント・ワークとは、尊厳、平等、公正な収入、安全な労働条件のことである。ディーセント・ワークは、人間を開発/発展の中心に据え、女性、男性、若者に、自分たちの仕事について発言権を与え、搾取から保護される権利を与え、包括的で持続可能な未来を実現する」ことだ。
売春がこれらの規定に真っ向から反する点は数え切れないほどあるが、一例を挙げるとすれば、最も基本的な健康と安全の基準に反していることだ。売買春の中の女性は、精液、汗、唾液に毎日何度もさらされ、さらには血液や尿にもかなり頻繁に、そして時には糞便にさえ意図的にさらされる。これだけ持続的に体液にさらされる環境においては、防護服を着用するのでないかぎり危険である。たしかにコンドームをつけてそうした行為をするものと想定されている。だがそれは、男性がそれに同意すればの話だが、そうしないことが多い。
一部の女性学者、ジャーナリスト、社会評論家が、仕事としての売春の妥当性を宣言し、著作、記事、オピニョン欄でこの虚構に賛同しそれを支持することが流行している。しかし、これらの人々がその断固として主張していることを実践しようとしないのはどうしてか。彼女らは通常、自分の主張を証明するために自分の身体を利用しようとしない。売春の正当性なる意見を広めている社会的に特権的な中上級階級の女性に対して、私がとりわけ憤りを感じるのは、マリー・アントワネットの先例と同じく、彼女らがあまりにも現実の経験からかけ離れていて、概念的なレベルでさえそれを理解することができないことだ。これらの人々は高い収入を得ながら、絶望的な状況にある女性たちにとってそれがふさわしい仕事なのだと平然と言い放つ。それは輪にかけた侮辱であり、傷口に塩を塗って、すり込む行為である。
哲学者のエイミア・スリニヴァサンは、『セックスする権利(The Right to Sex)』(2021年)という著作の中で、「第三波フェミニストが、たとえば、セックスワークは労働(sex work is work)であり、ほとんどの女性が引き受けている底辺の仕事よりも良い仕事になりうる、と言うのは正しい」と書いている。彼女の職場であるオックスフォード大学で床をモップで拭いたりトイレを磨いたりする女性清掃員は、口や膣が見知らぬ他人のペニスでいっぱいにされたほうがいい、ということであるが、その意味することを考えてみたのだろうか。もし、廊下ですれ違う清掃員にこのような助言をしたら、不適切な行為でしょっ引かれることだろう。
スリニヴァサンよりもさらに自己の信念に忠実で、実際に「セックスワーク」非犯罪化運動家を兼業している学者もいる。2015年、レスター大学の社会学者で長年、非犯罪化運動を続けてきたティーラ・サンダースは、レイプを含む暴行や、24歳のダリア・ピオンコが殺害されたという報告が複数あったにもかかわらず、リーズ市のホルベックにある「売春管理地域」は成功したと明言する報告書を発表している。サンダースの評価はデータに基づいているようだが、それでも現実とはかけ離れたものだと私は思う。その後、社会的な問題が絶えないことに抗議する地元住民の長い反対運動を経て、この管理地域は閉鎖された。
もちろん、売春している女性たちの中にも、それを擁護する人はいるだろう。なぜか? 売買春の中にいる多くの女性たちにとって、それは彼女たちが手に入れたいっさいだからだ。そのようなものを守ろうとしない人がいるだろうか? スウェーデンのSkarhed報告書(2010年)には、注目すべき、しかし当然とも言える結果が示されている。すなわち、売春にはまり込んでいるままか、それともそこから抜け出そうとしているかによって、売春に対する女性の意見が大きく異なることだ。売春をしているあいだ、これは単なる労働だと自分に言い聞かせること以上に普通のことはない。心理的にサバイブするためには、それはまさに感情的に必要不可欠ことなのだ。
本当は、買春でなされてきたことは「労働」などはなかった。売春はセックスでも労働でもない。セックスには相互性が含まれているというだけではなく、それを不可欠としている。売買春におけるセックスは相互性を欠き、その隙間を埋めるために現金が導入される。売買春では、現金は強制力であり、強要の証拠であり、同時に決定的な口封じでもある。自分自身への侵害行為を補償された女性に、苦情を言う権利があるだろうか。
この10年間、私はキャンペーンを行う中で、女性たちから「売春とはどんな感じなのか」と聞かれることがある。何年か前にこのことを説明する方法を思いつき、それ以来、何度か繰り返している。「今度、カフェやバーに行ったら、男性客を見回してみてください。老いも若きも、太っている人も痩せている人も、背の高い人も低い人も、ハンサムな人も醜い人も、素敵な人も気持ち悪い人も。そして、彼らとセックスすることを義務づけられていると想像してみてください。彼ら全員とです」。そう言っただけで女性たちの顔がみるみる恐怖の表情に変わっていくが、それはカフェやバーに行くまでもないからだ。たまたまドアから入ってきた人と寝ることに何の興味もないことを、彼女たちはよく知っている。
最も基本的なレベルでは、見知らぬ人にパーソナルスペースを侵害されると、ストレス反応が起こる。誰もがそれを知っていて、経験した誰もが本能的なレベルでそう反応するというのに、どうしてこれほど多くの人が、被買春女性の身体は他の人とは違う働きをすると思い込めるのか。通常の人間とは異なる振る舞いをすると思われている一群の女性たちがいて、彼女たちには、個人の境界線の感覚もなければ、不安反応や嫌悪反応もないとされているのはなぜだろうか? 私が時おり思うのは、売春が異常な行動として理解されているため、買春される側にも異常な属性が付与されているのではないだろうか。つまり、思考、感覚、感情、経験を持たない非人間的な資質があるとされているのではないだろうか。
私たちが人間について知っていることの多くが、売買春についての議論ではないがしろにされている。なぜか、金銭のこの奇妙な変異力〔人間的な反応を引き起こさせない力〕は、性行為が売買されるときにだけ働くようだ。発展途上国の搾取工場や移植用の腎臓を摘出する粗末な手術室では、現金にこのような魔法のような性質があるとはみなされていない。搾取工場は持続可能な職場とはみなされていない。搾取工場での労働者の待遇がひどければ、そういう環境下での衣料品製造業は持続可能なものとはみなされないだろう。われわれは、人権を否定する許可書やパスを金で買えないことを理解している――ただ一つの分野を除いては。
売買春の中の女性たちの扱いは、搾取工場での労働者の待遇と比べて、非常に重要な一点において比較不能である。売買春という行為そのものが衣料品の製造とは比較できないということだ。搾取工場は衣料品製造という一般的な分野から逸脱しており、労働者の基本的権利を欠いた製造の仕方であるため、それは人権侵害にあたる。これに対し、売買春は、個人からその尊厳を奪うものであり、それは売買春のすべての形態に当てはまる。なぜならそれこそが売買春の中核をなすものだからだ。売買春では、侵害の場が身体そのものなのだ。
いわゆる「性売買」は常にさまざまな神話に取り囲まれてきた。よくある神話の一つは、売春は「世界最古の職業」だというものだ。この虚構は、思いつくかぎりの他の職業と比較したときに売春がいかにそうしたものからはずれているかを無視している。たとえば、学問の世界で30年過ごした女性は、給与、職の安定、専門的な信頼性において、段階的な向上を期待することができる。また、自分の仕事に対する社会的評価を得ることもできる。同じことが、あらゆる雇用形態に共通して言える。しかし売春はまったく逆の動きをする。売買春というシステムの中で搾取されてきた期間が長ければ長いほど、女性の経済的価値は下がり、それに伴って収入も下がり、売春の中でも外でもますます尊敬されなくなるのだ。
私は最近のインタビューで、売春を表わすときに使われる「有償レイプ」という言葉をどう思うかと聞かれた。私が思うに、私たちはまだ売春を正確に表現するのに必要な言葉を開発していない。レイプとは、一般の人々の意識では、強制されたセックス、つまり協力も共謀も「同意」もないセックスを指すと理解されている。レイプが売春の代名詞として受け入れられていないのも不思議ではないし、そうなる可能性も低い。人々が見落としているのは、売買春という「交換」には、特別にトラウマを女性に植えつけるような要素が加わっているということである。それは、「交換」という要素そのものだ。女性が通常の意味でレイプされた場合、その侵害によってどんなに羞恥心で満たされ、そのことで自問自答がなされたとしても、彼女には罪はない。しかし売買春において望まないセックスに応じるとき、女性は自分自身の侵害に協力したことになる。この協力は彼女を苦しめる。そしてそれはまた彼女を沈黙させるのだ。
しかし、売春婦の真実は、彼女が性的虐待を受けたというだけでなく、数え切れないほど多くの性的虐待を受けつづけたということだ。売買春の真実は、何千年もの間、目に見えるところにありながら隠されてきた。われわれはみな本能的にその真実を知っている。だから、自分の姉妹や娘や母親を売春店に入れたくないのだ。感覚レベルで知っていることを、知的レベルではわからないというのは不思議なことだ。売買春の本質は複雑なものではない。それは単純なものだ。人々の性的行為をコントロールすることは、本質的に虐待なのだ。
おっと最後に言っておくが、世界最古の職業は助産師だ。売春はどんな種類の職業でもないし、最古でもない。
【補遺】この記事で批判的に言及されているアミア・スリニヴァサンの『セックスする権利』は最近(2023年2月)に日本語版が出版された(勁草書房)。勁草書房は1980年代からフェミニズム関連の著作を多数出してきた出版社だが、こういう出版社もセックスワーク論に屈服しているのである。(2023年3月8日)
出典:https://psyche.co/ideas/the-reality-of-prostitution-is-not-complex-it-is-simple
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