【解説】以下は、フランスの労働組合連合の一つである「フェデラシオン・サンディカル・ユニテール(FSU)」(教育部門と国家公務員が中心で、組合員は16~20万人)の活動家クレール・フォルタサンさんが、フランスのユマニテ祭(フランス共産党の機関紙『ユマニテ』が主催する年に一度の大衆的なイベントで、日本の「赤旗まつり」に相当する)で開催されたパネルディスカッション「売買春システムの打破と売買春や性的搾取との闘い――労働組合の責任」で行なった報告の全訳です。CAPインターナショナルのサイトから翻訳。
まず、ごく単純な問いから始めたい。なぜFSUのような労働組合組織が、売買春について立場を表明しなければならないのか。
一見すると、売買春は私たちの活動領域からかなりかけ離れているように思える。しかし実際には、そこには労働組合にとって極めて重要な問題が潜んでいる。「労働(work)」とは何か。何が市場の範囲内として受け入れられるのか。そして、階級やジェンダーによる支配関係が形作る社会において、その「自由な選択」とは一体何を意味するのか。そして最終的に、私たちが女性や男性の労働者を守るというとき、一体何を守ろうとしているのか。
FSUの立場はアボリショニズム(売買春の廃絶)だ。そして、アボリショニストであるということは、当然ながら売買春に従事する人々を非難することではない。むしろその正反対だ。私たちが擁護するアボリショニスト・モデルは、売買春に従事する人々の非犯罪化を図り、ピンプや人身売買ネットワークと闘い、性行為購買者を処罰し、公的機関に対し、売買春から抜け出したいと望む人々にそのための物質的手段を提供するよう求めるものである。
これは極めて重要な点だ。売買春の中にいる人々が問題なのではない。問題は売買春というシステムそのものだ。それを組織する者たち、そして他人の身体への性的アクセスを購入することで需要を助長する者たちこそが問題なのである。これが、2016年4月13日のフランス法の背後にある論理だ。すなわち、ピンプや人身売買の撲滅、被害者の保護と支援、売春からの脱却経路の確保、そして性行為の購入に対する処罰化である。FSUとしては、この法律を擁護すべきだが、何よりもまず、それがちゃんと実施され、必要なリソースが確保されなければならない。
言葉の問題――「セックスワーク」
まず言葉の問題から始めたい。なぜなら、これは決して2次的な問題ではないからだ。ここ数年、あるイデオロギー的な攻勢により、「売買春」や「売買春システム」といった用語を、「セックスワーク」や「セックスワーカー」へと徐々に置き換えようとする動きが続いている。
この語彙の変化はけっして些細なものではない。「セックスワーク」という言葉を使うこと自体が、すでに売買春に政治的・社会的な意味合いを与えている。これは、議論が始まる前から結論を先取りすることに他ならない。「労働(work)」とは、商品やサービスを生産する活動であり、雇用という形をとったり、報酬をもたらしたり、権利へのアクセスを提供したりするものである。そして「職業(profession)」とは、技能や資格、つまり学習可能であり、専門的に組織化できるものを意味する。
したがって、売買春が職業であるならば、その論理を最後まで突き詰めなければならない。性的行為の購入は、他の消費行為と同様に扱われることになる。この活動を組織化する企業が存在し、そこから利益を得る仲介者がおり、さらにはその実行者を募集する雇用主さえいるという事実を受け入れざるを得なくなる。
そして、さらに踏み込んで考えなければならない。もしそれが本当にそれが職業であるなら、研修コースを設けるべきだろうか。必要なスキルを定義すべきだろうか。客の要求に応じて性行為を行うよう人々を訓練すべきだろうか。これらは極めて具体的な問いだ。そして、まさにそのために、「セックスワーク」という一見中立的な言葉遣いが、こうした問題を覆い隠しがちになるのだ。
これこそが、FSUが断固として拒否する点だ。2024年9月、CGT、CFDT、ソリデール(連帯)と共に、私たちは売買春が「いかなる状況においても労働として認められてはならない」ことを改めて表明した。
そして、この拒否は、明らかに売買春の中の人々に対する道徳的判断に基づくものではない。それは、労働に対する私たちの理解、支配関係の分析、そして労働組合運動に対する理解から導き出されるものである。
収入をもたらすものすべてが、必ずしも「労働」であるとは限らない
私たちはよく次のような議論に直面する。結局のところ、働く人は誰でも自分の何かを売っているのだ、と。働く女性は労働力を売り、教師は技能を売り、売買春の中の人々は性的サービスを提供している。それなら、なぜ区別をする必要があるのか、と。この議論は唯物論的に見えるかもしれない。
しかし、それは一見そう見えるだけだ。なぜなら、労働者運動の歴史全体は、まさに女性や男性の労働者を保護する権利を勝ち取り、労働関係において何が許容され、何が許容されないかを集団的に定義することに他ならないからだ。
もちろん、労働には身体が関わっている。介護士を例に挙げよう。彼女は患者を持ち上げ、立ちっぱなしで働き、時には夜勤もこなし、同じ動作を繰り返し、かがんだり立ち上がったりする。そして、労働によって身体に深刻なダメージを負ったまま、キャリアを終えることもあるかもしれない。
しかし、彼女は自分の身体を売っているわけではない。彼女は労働を行ない、資格を活かし、専門的な業務を遂行しているのだ。そして、患者は、単に彼女の労働から恩恵を受けているというだけで、彼女の身体に対する権利を得ることはけっしてない。
労働が彼女にもたらす害に対し、労働組合としての対応は、まさにその害を軽減しようと努めることにある。すなわち、労働条件の改善、過酷な労働環境の予防および認識を通じてである。したがって、これは重要な指針となる。労働に関わる身体と、取引の対象としての身体へのアクセスを混同してはならない。
より広く言えば、労働法は、契約さえあればいかなる経済関係も正当化されるという考えに対抗して築かれたものである。私たちは児童労働を禁止した。労働時間を制限した。安全衛生基準を課した。なぜか。それは、報酬の支払いや契約上の合意があるだけでは、支配関係が消えるわけではないからだ。
実際、これが労働組合が存在する理由の一つである。すなわち、完全に自由で平等な2人の個人が契約を結ぶという虚構の背後に、社会的な力の均衡を再び浮き彫りにするためである。
しかし、まさにこの点が、「性的サービス」という語彙によって覆い隠されがちなのだ。買春者は、単なるサービスを買っているわけではない。彼らは、他者の身体への性的アクセス権を買っているのだ。そして、政治的に問われなければならないのは、まさにその購入対象の性質そのものである。フェミニストや労働組合員として、私たちは、従属関係や経済的依存関係が、いかなる者にも女性労働者の身体への性的アクセス権を与えるものではないと認めさせるために闘ってきた。したがって、他のあらゆる場面で私たちが反対しているこの経済的権力が、職業活動の根本原則となり得ると考えることは、矛盾もはなはだしい。
「個人の選択」論
私たちに対して頻繁に提起される第2の議論は、「個人の選択」だ。そして、この議論は真剣に受け止めなければならない。
確かに、一部の成人は、自ら売買春を選んだと述べ、自分をセックスワーカーと定義している。私たちは、彼らの個人的な主張を否定する理由はない。しかし、労働組合組織は、支配関係が最も目立たない状況だけに基づいて政治的分析を構築するものではない。労働組合組織は構造に注目する。選択が行使される物質的条件に注目する。そして、権力関係に注目する。
売買春の現実は、ある本質的なことを思い起こさせる。それは、このシステムが深くジェンダーに根ざしており、支配関係によって形作られているということだ。性的行為を購入するのは圧倒的に男性である。そして、売買春に従事しているのは圧倒的に女性と少女、時には未成年者である。
経済的不安、移住、暴力、社会的脆弱性が、その中心的な役割を果たしている。したがって、単に自由で平等な2人の抽象的な個人を扱っているかのように論じることはできない。
そしてここでもまた、労働組合の経験が手段を与えてくれる。従業員が「週に60時間働きたい」と言うことは十分にありうる。だからといって、労働時間制限の廃止を要求することにはならない。ある人が極めて低い賃金で働くことに同意することもあるだろう。しかし、そこから最低賃金制を廃止すべきだと結論づけることはない。
なぜか? 集団的権利が存在するのは、まさに経済的必要性や個人の交渉力だけで、人々が自分自身をコントロールする条件が決定されてしまうのを防ぐためだからだ。たしかに個人の同意は存在する。しかし、それは常に特定の社会的条件下で行使されるものだ。したがって、労働組合の問題は、「売買春を自由に選んだと主張する人物を見つけられるか」ということではない。もちろん、見つけることはできる。
真の問題は、「社会全体としてどのようなシステムを確立したいのか?」ということだ。そして、この市場はどのような社会的現実を利用/搾取しているのか、だ。
売買春の現場では女性が圧倒的に多く、男性が圧倒的に買い手である以上、取引の瞬間にジェンダーが魔法のように消え去るふりをすることはできない。また、不安定な生活状況、移住、暴力、差別が売買春システムの基盤となっている以上、金銭のやり取りを、それを可能にしたあらゆる要因から切り離して考えることはできない。
社会変革にコミットしてきた労働運動にとって、自由とは単に、必然によって取り残された選択肢の中から選ぶことができるということではない。それはまた、そうした選択を決定づける物質的条件を変革することでもあるのだ。
「規制があれば、権利を保障することが可能になる」論
これはおそらく、労働組合員として私たちが最も懸念すべき主張だろう。なぜなら、そこには「社会的権利」「保護」「安全」「健康」といった、私たち自身の言葉が使われているからだ。
そしてもちろん、売買春の中の人々にも権利が保障されなければならない。彼女らは、医療、社会的保護、住居、在留資格、司法、安全、そして生活を送るための資源にアクセスできなければならない。暴力から保護され、職業訓練や雇用にアクセスできる必要がある。そして、売買春から抜け出したいと望む人は誰でも、経済的にそれが可能でなければならない。
しかし、権利を持つことは、売買春を職業として認めることを意味しない。それこそが、私たちの立場の核心である。すなわち、搾取を組織化する市場を正当化することなく、人々を守るということだ。
なぜなら、売買春を「労働(work)」として認めることは、単に売買春の中の人々に一定の地位を与えるだけではないからだ。それは同時に、性的行為を購入する者、この活動を組織する者、そしてそこから利得を得る者たちをも正当なものとして認めることになる。それは、私たちがまさに撲滅しようとしている市場全体に、経済的・社会的な存在意義を与えてしまうのだ。
だが、私たちは自らの立場に対しても厳しい姿勢を持たなければならない。私たちのアボリショニズムは、売買春から抜け出すための手段を真に提供して初めて意味を持つのだ。ここで、私たちの労働組合としての責任が不可欠となる。十分な資金が確保された離脱の道筋を守るだけでなく、住居、在留資格、職業訓練、雇用、そして生活を送るための資源へのアクセスも保障しなければならない。
つまり、売買春が経済的な必要に迫られて行なわれることのないよう、物質的な条件を整えなければならないのだ。
買春者を再び議論の中心に据える
この議論において、私にとって不可欠と思われる点がある。「セックスワーク」をめぐる議論は、実に効果的な政治的作戦を展開している。それは、すべての注目を売買春の中の当事者に集中させることだ。
彼女らの選択。彼女らの同意。彼女らの自律性。彼女らの自由。その一方で、ある存在がほぼ完全に消え去ってしまう。それは、買春者だ。
しかし、需要がなければ売買春システムなど存在しえない。自らの経済力によって他人の身体への性的アクセスを得られると考える男性たちがいなければ存在しえないのだ。したがって、私たちはこの問いを逆転させる必要がある。
なぜ私たちは、男性が他人の身体への性的アクセスをお金で買うことを容認できると考えるのだろうか。そして、なぜ社会はこの市場を認め、組織化しなければならないのか。
2016年の法律が、買春者を処罰することでまさに問いかけているのは、性行為の購入が社会的に中立な行動であるという考え方だ。買春者は売買春システムの外にいるわけではない。彼らはその存在の前提条件なのだ。
そして、この需要は圧倒的に男性によるものだ。したがって、私たちが扱っているのは、対等な個人間の抽象的な市場ではない。売買春システムは、性とジェンダーをめぐる社会的関係によって深く構造化されているのだ。
こうした関係は、女性が依然として低い賃金しか得られず、不安定な雇用や暴力、差別にさらされやすく、家庭や子育ての負担を不釣り合いなほど多く負わされている社会の中に根ざしている。
ここが、階級と家父長制が交差する点だ。経済的不平等によって、一部の人々は他者の身体への性的アクセスを金で買うことができる。だからこそ、この議論を売買春に従事する個人の選択の問題だけに還元することはできない。買春者、貨幣、そして性とジェンダーをめぐる社会的関係を議論の中心に据えなければならない。
そして、フェミニストとして私たちが擁護する性的自由とは、自分自身の身体に対する自由の権利のことであって、経済的余裕のある者が他人の身体へのアクセス権を購入する自由であってはならない。
売買春は階級支配の問題でもある
そして、おそらくこれこそが、労働組合としての私たちの責任が最も重要となる点だ。
すぐれて具体的な問いを投げかけてみよう。もし私たちが、売買春も他の労働や仕事と同じだと集団的に決定したとしたら、誰がこうした仕事を引き受けることになるのか? 私たちの娘たちか? 特権的な社会階層出身の学位を持つ女性たちか? それとも、過酷な搾取が横行する多くの分野と同様に、最も貧しい女性たち、移民の女性たち、資源も選択肢も最も少ない女性たちか?
この問いが不快に感じられるのは、「自由な選択」をめぐる議論が、階級関係を意図的に抹消しがちであることを暴いているからだ。
労働組合員として、私たちは、選択が人々の物質的な生活条件とは無関係に行なわれるものではないことを知っている。収入、住居、在留資格、社会的保護、訓練や雇用へのアクセスを確保しているということは、より多くの選択肢を持っていることを意味する。
だからこそ、売買春システムの廃絶は、私たちのあらゆる社会的要求と切り離せないのだ。ここにおいて、アボリショニズムの運動と労働組合運動が直接交差する。私たちは、闘争と社会変革にコミットする労働組合の連合体である。私たちの役割は、単に既存の経済関係を認め、その暴力をわずかに和らげようとするだけではない。私たちが賃金、社会的保護、公共サービス、雇用の平等を求めて闘うのは、真の自由には権利と経済的自立が必要だと知っているからだ。
これはまさに、売買春問題にも適用すべき分析的枠組みそのものである。女性の貧困に対する私たちの対応は、彼女たちが「売り物」にできるものを拡大することではありえない。外国人女性の不安定な状況に対する私たちの対応は、彼女たちの脆弱性が経済的資源となるような市場を組織することではありえない。
男女間の不平等に対する私たちの対応は、一部の者の経済的権力を、他者の身体への性的アクセス権に変えることではありえない。
だからこそ、売買春システムの廃絶は、まさに階級の問題なのである。
セックスワーク論のいわゆる「現代性」は幻想にすぎない
最後に、売買春をめぐる多くの議論に共通する一つの考えについて触れておきたい。一方には「セックスワーク」の承認という、現代的で進歩的な立場があり、他方には必然的に道徳主義的、父権主義的、あるいは反動的さえあるアボリショニズムがあるという構図だ。
私は、この対立構図こそが真に問い直されるべきだと考える。そして、現在の争点をめぐっては、このことをかなり如実に示す事例がある。フランスでは現在、売買春施設の再開を提唱しているのは「国民連合(Rassemblement national)」だ。
これはけっして些細なことではない。少なくとも一つのことを示している。すなわち、売買春市場を認めることが、本質的に進歩的であるとは限らないということだ。極右勢力は、「保護」「安全」「自律」「権利へのアクセス」といった言葉を巧みに用いて、その言葉の裏に隠された、男女関係に関する極めて保守的な観念を擁護することができるのだ。
なぜなら、この論理の中でけっして問われることのないのが、男性の需要だからだ。その需要は存在すると前提され、常に存在し続けるとされ、それに抗うことは無益であり、したがってその需要を満たすための市場を組織すべきだとされる。その結果として、特定の女性たちの性的利用可能性が組織化されるべきとなる。私にとって、まさにここが議論の焦点を転換すべき点だ。
男性が女性の身体への性的アクセスを購入することを避けられないことだと考えることの、いったい何が進歩的なのか。経済的・社会的不平等に対処するために、金を持つ者がこのアクセスを購入できる市場を組織することに、いったい何が解放的なのか。
この商品化を個人の選択や自由の行使として提示したところで、社会的な関係が消え去るわけではない。私たちは常に、究極的には極めて単純な問いへと立ち返らなければならない。誰が金を持っているのか。誰が買うのか。誰が買われるのか? 誰が市場を組織するのか? そして、誰がそこから利得者になっているのか?
これこそ、私たちが「アボリショニズム」を過去の立場だとする考えを拒否する理由でもある。
したがって、社会変革にコミットした労働組合運動は、既存のあらゆる市場を承認し、組織化し、規制すべきだと考えることではない。不平等や支配関係から利得を得、売買可能な対象の範囲を絶えず拡大し続ける資本主義とその商品化の論理に私たちは断固反対する。
そして、女性を「本来の場所」に押し戻そうとし、女性や性的マイノリティの人々の権利を攻撃し、階層、不平等、支配に基づく社会秩序を擁護しようとする極右、ファシズム、そしてそれらの反動的な企てに対しても、私たちは同じ決意をもって闘う。
したがって、私たちアボリショニストの闘いが、フェミニストの闘い、資本主義との闘い、そして極右との闘いと交差するのは偶然ではない。これらの闘いは、同じ社会変革のプロジェクトの一部である。すなわち、支配関係を「当然のもの」として受け入れることを拒み、それらを市場に変えることを拒み、そしてそれらを生み出す社会関係と闘うことだ。
すべてが売り物というわけではない。そして、解放とは、女性が売り物にできるものの範囲を際限なく拡大することではない。解放とは、私たちの自由のための権利と物質的条件を勝ち取り、こうした不平等や支配関係を生み出す社会を根本から変革することにある。
結論
売買春システムと闘いながらも、売買春の中の人々の権利、安全、尊厳を守ることができる。これには何ら矛盾はない。
自らを「セックスワーカー」と定義する人々の声に耳を傾けることはできるが、彼女らの個人的な経験だけが私たちの政治的分析を決定づけるべきだとは考えない。なぜなら、私たちの労働組合としての展望は、搾取をより容認できるものにすることなどではけっしてなかったからだ。それは、搾取を生み出す社会関係と闘うことにある。それこそが、私たちのアボリショニズムの真の意味である。すなわち、階級闘争、フェミニズム、そして社会変革に根ざしたアボリショニズムだ。
女性労働者や女性の解放とは、彼女たちが「売り物」にできるものの範囲を広げることではない。解放とは、そうする必要がなくなるような権利と物質的条件を、集団的に勝ち取ることである。
だからこそ、私たちのアボリショニズムはフェミニスト的なのであり、だからこそ、それは労働組合運動に完全に根ざしているのだ。