【解説】介護者が障碍者の買春行為を支援することが刑法に反するかどうかが争われたイギリスの裁判で(イギリスでは日本と同じく売春の助長行為は禁じられており、とくに介護者の地位にある場合はそうだ)、今年(2021年)の4月の判決では、それを容認する判決が下されたが、10月の控訴審では、一審判決が覆され、介護者にはそのような行為に従事することは許されていないという(当然の)判決が下った。また、裁判の当事者となった障碍者男性は、以前から暴力的傾向のある人物として知られていた。
セックスワーク派はしばしば、障碍者を持ち出して、売買春の合法化を主張している。この主張は、一見すると弱者保護的に見えるが、実際には、男性にはそもそも女性とセックスする権利があり、それはいかなる手段によっても満たされなければならないとする根本的にインセル的な考え方にもとづいている。このような考え方にもとづくなら、もてない男性にも女性があてがわれるべきであり、戦場の兵士は生死も定かでない弱者なのだから慰安婦があてがわれるべきだという考えにもつながる。誰であれ、他人の性を買う権利はない。セックスは人権ではない(今日紹介する論文の原題)。
ここに紹介するのは、イギリスのアボリショニスト団体 CEASE(Centre to End All Sexual Exploitation)のトム・ファーさんが『クリティック』という雑誌に書いた記事である。
『クリティック』2021年10月22日
トム・ファー
今日の朝、控訴裁判所はCさん事件の裁判で待望の判決を下した。この事件は、その核心にあるデリケートで複雑な性質のため、緊張感に満ちた訴訟であった。
簡単に紹介すると、学習障碍のある男性Cさんは、被買春女性の「サービス」を受けて性的接触の対価を支払うことを希望していたが、自分自身でその手配をする知的能力がなかった。そこで介護者にその手配をしてもらった。
ここで争われた法的問題の一つは、介護者がそのような手配をした場合、それが、「性的行為を引き起こしたり、扇動したりすること」を介護者に対して禁じた2003年性犯罪法第39条に基づいて違法行為に当たる可能性があるということだ。
長い話を短くすると、控訴裁判所は一審の保護裁判所〔2005年の法律に基づいて設立された、精神障碍者のための特別の法廷〕の最初の判決を覆し、このケースでは、Cさんの介護者は学習障害のある依頼者に代わって性的アクセスの購入を促進することは断じて許されないと判示した。
当然のことながら、このケースは強い感情的な反応を引き起こした。なぜ学習障害者がセックスをすることを妨げられなければならないのか? たしかに彼らにも、保護裁判所の判決で述べられたように、「関係者全員の人間性と尊厳を尊重した」「自律的な性的表現」に従事することが認められるべきだ。
しかし、これは微妙に方向性が間違っている。包括的な性的自律性というプリズムを通してこれを見ることは、売買春の現実を曖昧にすることになる。売買春という残酷なシステムの中に閉じ込められている多くの女性や子どもたちにとって、主体性や選択は彼女らの現実からはほど遠い。
たとえば、売買春が合法化されているオランダのある事件では、6人の被告が、共犯者の広大な組織的なネットワークを介して、100人以上の女性を、国家に認められた売買春を通じて人身売買をしていた罪で有罪となった。そこでは、女性たちは「レイプ、豊胸、中絶を強要する」などの暴力を受け、それが女性を支配する方法として使われていた。
5ヵ国を対象としたある調査では、「放尿、乳房をつねる、アナルセックス、肛門や膣に物を挿入する、獣姦、……女性に武器を使用する……バンダナで首を絞める、火傷を負わす、延長コードで縛る、ナイフや銃で襲う、靴や酒瓶で殴る」などの行為が頻繁に行なわれていた。
さらに、女性たちがこのような現代の奴隷制度から逃れようとしたとしても、調査研究では次のような結果が報告されている。「ミスをしたり、逃げようとすると体罰を受ける。……病気や気分が悪いときでも男性に奉仕しなければならない。……彼女たちの行動は高度に管理され、ほとんどの女性は施設から出ることができず、厳重に監視されていた」。
こうして議論の枠が変化することがわかる。もはや性的アクセスの購入は、同等の交渉力を持つ当事者が、共通の自律性を行使して友好的な契約を結ぶという問題ではない。ほとんどの場合、男性は、支払いの申し出を受け入れる以外の選択肢がほとんど持たない女性の弱みにつけ込んでいるのだ。
また、裁判所は、Cさんが「性的および暴力的な逸脱行為を行う危険性」があり、「安全にセックスワーカーと2人きりにすることができるかどうかについては重大な疑問がある」ことを明確に認めていることにも注目すべきである。Cさんが被買春女性と2人きりにされた状況は、上記の暴力的なシナリオの一つと何か違いがあるのだろうか? おそらくない。
その結果、問題の核心は、何らかの個人が性的アクセスを購入する権利を持っているかどうかである。これはCさんが主張したもので、彼は、欧州人権条約の第8条の権利(私生活および家族生活を尊重する権利)にもとづいて、もし2003年性犯罪法の第39条に基づいて刑事責任を負うことになれば、それは彼の私生活への干渉になると主張した。この私生活なるものには、他の人間への性的接触を購入する権利が含まれていると考えられている。幸いなことに、裁判所はこの主張を退けた。
判決で述べられているように、第8条には、介護者が顧客のために性的アクセスを購入することを容易にすることを国が認める義務(あるいは、刑事制裁なしに、より一般的にこのようなことが起こることを認める義務)が含まれていると解釈できる余地はない。この事件を担当した法廷弁護士の一人であるシャーロット・プラッドマン博士は私にこう言った。
「今日の裁判所の判決を歓迎します。セックスにお金を払うことは、人権ではありません。公共政策に対する今回の政府のアプローチが示しているのは、性売買が搾取によって支えられている以上、売買春に対して慎重なアプローチを取る必要があるということです」。
この判決は、53条A項が、女性が売春を強要されていないことを証明することを困難にしている(私は不可能ではないと思うが)ことも正しく指摘している。とくに、子どもの頃や大人になってからの性的虐待、グルーミング、金銭的なコントロール、人身売買、性的客体化、言葉や身体的な虐待、レイプなど、女性が受けている強要的な束縛の数々を考慮するならば、なおさらだ。
私たちの団体〔CEASE UK〕への相談者の多くが売買春で搾取されてきたし、私はそれを目の当たりにしてきた。法律がこれを容認するのはまったくの誤りであり、とりわけ男性が女性の身体を性的に搾取したり購入したりする権利を認めるのは間違っている。これは人権ではない。これは虐待だ。
今回の判決は、このケースに限らず、売買春についての語り方や、障碍者が性売買推進派に利用されてきた方法を変えるきっかけになることを期待している。
ジュリー・ビンデルが著書『美化される売買春――セックスワーク神話を打ち破る』で説明しているように、多くの障碍者権利活動家は、身体的ないし精神的な障碍を持つ人が、充実した豊かな生活を送るために性的アクセスを購入することに頼らなければならないという考え方に、非常に嫌悪感を抱いている――「何か障碍があれば、誰かとセックスするにはお金を払わなければならないほど望まれない存在になるということなのか」と。多くの人がこのような考えに強い不快感を覚えるのは明らかだ。
売買春をめぐる個人の「権利」の問題については、実態がしだいに明るみになりつつある。あまりにも長い間、言説は性的接触を購入する側の権利に焦点を当ててきたが、女性たちが誰かから貶められたり暴力的な搾取を受けたりしない権利の方はどうなのか? 私たちが関心を持ち、優先しなければならないのは、これらの女性たちであり、法律も政府も、彼女たちの隷属をもはや容認してはならないのだ。
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