「女性の身体部分のフェミニズム」をめざして――トランスジェンダリズムのために被買春女性を犠牲にするマッキノン

キャロライン・ノーマ

 2022年11月、キャサリン・マッキノンはオックスフォード大学でのスピーチで、トランスジェンダリズムは女性の性的搾取に反対することと両立すると主張している。マッキノンは過去40年にわたり、売買春やポルノに反対するラディカル・フェミニストの理論化や法的活動を主導してきた。しかし彼女は最近、その執筆活動や講演活動をトランスジェンダリズムの推進に振り向けている。しかし、被買春女性のために尽力する者として、彼女の行動は正しいだろうか?

 オックスフォードでのスピーチでマッキノンは、「性別の生物学」が女性を定義する方法であるならば、「女性の抑圧は女性を定義するものによって定義される」ことになるとして、それを否定した。女性の抑圧を「性別の生物学」と結びつけて理解することは、単にトランスフォビックな排除の目的のためだけにでっち上げられた話だとほのめかしている。言いかえれば、解放的な目的ではなく、排除的な目的のために女性を定義しようと企んでいるというわけだ。「性別の生物学」は、女性の抑圧を限定するためのでっち上げられた基準であると彼女は言う。なぜなら、「性別を決定づけると考えられているものは、身体的であるだけでなく、身体的に変えることができないように選ばれた諸性質」だからである。彼女の指摘は、ジェンダークリティカル(GC)・フェミニストたちが悪意を持って行動し、恣意的に女性特有の性質を、女性として抑圧されている人の定義として選んでいるということだった。

 しかし、これらの諸性質を選んだのは本当にGCフェミニストなのだろうか? アンドレア・ドウォーキンならおそらくそう考えなかっただろう。ドウォーキンは売買春のサバイバーであり、2005年に亡くなるまでマッキノンと共にアメリカのポルノ産業と闘ったフェミニスト作家である。彼女の著作は、人間の尊厳の基準としての身体の不可侵性が女性には否定されていること、なぜなら男性社会が性的挿入を侵犯(violation)と定義しているからだと指摘している。ドウォーキンは1987年の著書『インターコース』の中で、「女性の性器に対する憎悪、女性の身体に対する憎悪、セックスで触れられる女性の内側に対する憎悪」を助長することを通じて、このような事態を引き起こしていると説明している。その結果、女性は、挿入は身体的不可侵性を侵害するという論理で人間としての尊厳を否定され、性的に挿入される側であるため、定義上、女性には尊厳がないことになる。

 この憎悪がどのように助長されるのかについて、マッキノンはかつて、問題が「言葉だけ(only words)」にとどまらないと考えていた。ミソジニー的なプロパガンダ以上に、女性に対して組織的かつ絶え間なく行なわれる憎悪的な性行為が鍵を握っていた。売買春とポルノグラフィがグローバルな規模でこうした行為を可能にし、女性は文字通り「売春婦」にされてしまった。つまり、女性が性的侵害によって定義されたのだ。マッキノンは1993年に、「女性は売買春を通じて侮辱され、人道的制約のない残酷で残虐な取り扱いを受けている」とし、決定的なことに「売買春はそれをする機会であり、その機会は、女性がセックスのために売り買いされる時に入手される」と書いている(キャサリン・マッキノン「売買春と市民的権利」、同『女の生、男の法』上、岩波書店、2011年、203~204頁)。買春という憎悪的な性行為は、言い換えれば、女性侵害としての挿入を生み出し、その結果、女性全体が人間としての尊厳を欠いた集団と化してしまうのである。

 したがって、「売春婦」としてセックスのために売買されるのが圧倒的に女性や少女であるのは偶然ではない。そしてこの性売買が人口の半分に特有の身体的特徴を搾取しているのも偶然ではない。しかし、マッキノンは現在、こうした性行為が女性の抑圧に果たす役割を軽視している。代わりに彼女は、問題が女性の生物学的な身体性とは別の領域、単なる「意味と投影」の領域で生じていると考えている――「男性支配社会が作り出し、私たちに投影し、私たちに帰属させるミソジニー的な意味――それは私の意見と分析では女性のセクシュアリティを中心にしている――によって、私たちはジェンダー・ヒエラルキーの底辺に置かれている。これは生物学とはまったく関係がない」。

 しかし、「男性支配社会がつくり出すミソジニー的な意味」が、売買春のような女性たちを「売春婦」として侵害可能な存在に変えてしまう行為なしには、どのように生まれるのかは理解困難だ。マッキノンは、何かに遠慮して、買春者が女性に「投影」する凶悪で残虐な性行為について言及していないため、「女性のセクシュアリティ」がミソジニー的意味を反映するようになるメカニズムが謎に包まれたままになっている。しかし、買春者の行動に関する報道を見れば、この点に関していかなる不明確さの余地もない。たとえば、2022年にオーストラリアで起きたある事件で、記者はこう書いている。

「違法売春店にいるアジア人女性たちは、レイプを実行するために買われていた。携帯メールにレイプが明記されていたし、私が見た携帯メールでは『君をレイプしたい』とか、『レイプはいくら?』とある。……いつも避妊具なしのセックスが求められていた。携帯電話を管理している連中〔ピンプ〕もそれを許可していた。……だから彼女たちには選択の余地はなかった。」

 このような女性への扱いを組織化する上で、売買春は、性的な挿入を侵害とし、女性を当然、侵害可能で人間としての尊厳のない存在とするうえで決定的な行為である。この理解に基づいて、ラディカル・フェミニスト運動は何十年もの間、被買春女性のために尽力してきた。それどころか、この運動は、まさにこのコミットメントの点で他と区別される政治運動である。ドウォーキンのような売買春サバイバーの女性たちは、女性の抑圧に対する重要な洞察を提供する存在として、運動の中で評価されてきた。今日、彼女のような女性たちは世界中でラディカル・フェミニスト運動のリーダーであり、売買春とポルノグラフィを理論化することで、ラディカル・フェミニスト運動を方向づけている。しかしマッキノンは現在、このプロジェクトを投げ捨て、被買春女性を見捨てようとしているようだ。彼女は新たに、彼女たち固有の身体的特徴を、彼女たち(私たち)の抑圧を組織する政治システムに単に偶発的に付随するものであるかのように言いくるめようとしている。

 しかし、はたして被買春女性は、この新しい見解と彼女たちの世界経験とを調和させることができるのだろうか? 膣瘻孔〔子供の小さい膣に大人のペニスを無理やり挿入することや若年出産などが原因で膣と直腸との間の壁に穴があき、そこから便が漏れるようになった状態〕を患う世界の幼な妻たちや、性器切除を受けた女性たちとともに、彼女たちは膣を利用されたために、短くて悲惨な人生を送っている。第二次世界大戦の終わりからペニシリンが主流になる前は、性病に感染した日本の性産業の女性たちは、閉鎖病棟に「見捨てられ、死ぬまで放置」されたり、赤線地帯から出ることを許されたのは、病気が重くなって客の相手をし続けられなくなってからだった。2009年に出版されたシーラ・ジェフリーズの著書『インダストリアル・ヴァギナThe Industrial Vagina)』のタイトルが示すように、今日でさえ、グローバルな売買春産業における膣の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。

 ピンプや人身売買業者が生計を立てるためには、膣や女性の身体に対するアクセス権を売買することが不可欠であり、そのために女性を性産業に引き留めることに多大な時間が費やされている。女性が売買春から離脱するのを阻止するために、あからさまな暴力が使われることもあるが、より一般的なのは借金で縛ることである。この借金を作る方法のひとつは、「魅力的」であり続け客をリピートさせるために、性産業に入った後に女性たちに美容整形手術や豊胸手術を受けさせることだ。シーラ・ジェフリーズが『美とミソジニー』の中で述べているように、美容産業と性産業は手を取り合って、女性をピンプに隷属させるために機能している(不可解なことに、マッキノンはラディカル・フェミニストたちが豊胸手術を批判していないかのように主張しているが、ジェフリーズは性産業との関連に言及しながら、詳細にそれを批判している)。その結果、ソウル最大の赤線地帯のような場所には、美容整形を提供するクリニックがひしめき合い、これらのクリニックはクラブのオーナーやピンプと直接連絡を取り合って予約を手配している。買春者たちから日々受ける侮辱や無礼な品定めの視線に耐えかねて、女性たちは進んで美容整形を受ける。

 マッキノンはこのような性産業と美容整形産業のつながりを知っているはずだが、被買春女性と「トランスの人々」とのあいだに共通点があると示唆するとき、その重要性は軽視されている。彼女は、「トランスの人々の多くが、自活するため、また性別移行するための資金を調達するために売買春に頼らざるをえなかったという事実は、彼女たちが他の女性たちと共通していることを証明している」と主張する。しかし、「トランスの人々」と被買春女性とを一まとめにするこのような試みは、女性がなぜ性産業に入るのかという点を誤解している。好むと好まざるとにかかわらず、世界の女性人口の一定割合は買春されており、美容整形はその数を確保するための現代的手段である。美容整形は女性を性産業に引き留める戦略の一環として利用されるが、一方「トランスの人々」にとっては、マッキノン自身が述べているように、この結びつきは「自活するため、性別移行するための資金を得るために売買春に頼らざるをえない」個人のレベルにある。女性とは異なり、「トランスの人々」にあっては、性産業は個人の搾取とは関係なく営まれている。逆に女性にとっては、性産業は女性自身の搾取に不可欠なものとして営まれているのだ。

 マッキノンは、被買春女性の経験が「トランスの人々」の経験とは根本的に異なると認識するどころか、この事実を確認することが「トランスの人々」に害をなすと考えている。それはどうやら、「とりわけトランス女性たちを売買春ロビーの腕の中に押しやってしまう」らしい。マッキノンにとって、「トランス女性」は自ら自主的に反売春活動を行なうことはできず、そうするためにはGCフェミニストの協力が必要なようだ。これらのフェミニストはさらに、「トランス女性」がピンプや買春者を擁護する側に回る明白な反動派にならないよう彼らを女性として認めなければならないらしい。「トランスの人々」は、フェミニストのジェンダークリティカルな視点に我慢ならず、そのせいで反売買春の闘いさえできないようだ。しかし、フェミニストは、他のさまざまな意見の相違を超えて、さまざまなグループと、とりわけキリスト教系のグループと協力関係を結んできた。しかし、「トランスの人々」にとっては、売買春の支持者にならざるをえないほど、このような協力関係は受け入れがたいものらしい。こうして、GCフェミニストは人質にされている。「トランス女性」が女性であることに同意するか、さもなくば、「トランス女性」をピンプや買春者の側に追いやるかのどちらかだというわけである。

 ラディカル・フェミニズムの根本原理に敵対するグループに対するマッキノンのこの並々ならぬ忠誠心は、彼女が言うところの「フェミニスト・トランスフォーブ」の中にもいる売買春サバイバーをあっさりと切り捨てているのとは実に対照的である。トランスジェンダリズムに明確に反対している売買春サバイバーのレイチェル・モランや、女性の定義に「トランスの人々」を含めることを拒否したために職を失いつつあるその他のサバイバーたちに対して、彼女は何の同情の言葉もかけていない。多くの売買春サバイバー自身がトランスジェンダリズムの要求に反対していることは、マッキノンにとって、配慮と敬意を伴った対応が必要だとは思えないようだ。

 売買春サバイバーたちは、実際、著名「トランスの人々」でさえ被買春女性に何の関心も抱いていないことを知っている。彼らは、ピンプや買春者を取り締まるというラディカル・フェミニストの呼びかけを支持しない傾向があり、トランスジェンダーの権利を支持することは「セックスワーク」の支持につながるはずだとあからさまに示唆する者もいる。それにもかかわらず、マッキノンは、「性的人身売買の目的地として組織犯罪に大部分支配されている売買春を擁護するために、ネット上でトランスであると称するすべての人が、実際にトランスであるとはかぎらない」と注意を促している。彼女は、性産業を擁護することとその人が「トランス」であることとはまるで両立しないと示唆したいようだ。たしかに、個々の「トランスの人々」の中には売買春で搾取されている者もおり、そのために売買春を擁護する気にならない可能性はある。しかしこのことは若いゲイ男性にもあてはまるし、おそらくその数はずっと多い。しかし、マッキノンはゲイ男性と被買春女性を一まとめにするようなことはしていないし、ゲイ男性の性産業支持者がゲイではない可能性を示唆することもない。一方、ラディカル・フェミニストで性産業推進派という人がいるとすれば、本当のラディカル・フェミニストではないと指摘するのは極めて妥当だろう。なぜなら、ラディカル・フェミニズムの政治とは、すでに説明したように、理論的にも活動的にも売買春に反対するという点にあるからだ。したがって、トランス運動の側から、同じぐらい明確な反売買春の政治的コミットメントが表明されていない以上、ラディカル・フェミニストの同盟関係の対象を変える理由はまったくない。

 マッキノンはオックスフォード・スピーチにおいて、GCフェミニストを多くの侮蔑的名称で呼んでいるが、その中には特に被買春女性に対する蔑視を示すものがあった。彼女はGC派の運動を「女性の身体部分のフェミニズム」と呼んでいる。この言葉は、売買春を自分たちの「身体部分」への攻撃として経験してきたサバイバーたちの証言と鋭く矛盾している。オーストラリアのサバイバー、ローズ・ハンターは『ボディシェル・ガール(Body Shell Girl)』という回想の中で、そのことを詩の形式で書いている。

「仰向けになると/身体の存在しない場所へと私は入り込む/(だから身体には何も起こっていないんだ)/私は単なる心、ポップソングや何かを頭の中で復唱する心だ」。

 「身体の存在しない」状態というのは、女性たちが売買春を生き抜くうえで必要不可欠なものであり、彼女たちは「女性の身体部分」の侵害がもたらす精神的狂気に屈するよりも、解離し、飲酒し、自傷し、ドラッグを服用する。マッキノンが1989年に、「バラバラにされた身体の一部への」家父長制的な「執着(おっぱいフェチ、足フェチ)」が「フェティシズムを呼び起こす」と指摘したとき、女性の抑圧のこの重要な特徴をそれなりに理解していた。ベトナム人女性はもっと早くからそれを理解していたが、残念ながらそれは「意味と投影」という形ではなかった。ベトナム戦争帰還兵のアメリカ人は1971年にこう証言している。

「一人のベトナム人女性が狙撃兵に撃たれたのを見た。われわれの軍の狙撃兵だ。私たちが近づいたとき、彼女は水を求めていた。中尉は彼女を殺せと言った。それで彼は彼女の服を引き裂き、兵士たちは彼女の両胸を突き刺し、開脚させ、Eツール(塹壕を掘る道具)を膣に突っ込んだ。彼女はまだ水を求めていた。そして、彼らはそれを抜くと、代わりに木の枝を突っ込んだ。そして彼女を撃ち殺した。」

 GCフェミニストたちが、女性の身体は統合的なものであると主張し、マッキノンが「女性の身体部分のフェミニズム」というレッテルを侮蔑的な意味で使っていたとしても、このスローガンはGCフェミニストたちが誇りのバッジとして身につけるべきものなのかもしれない。というのも、私たちの中のサバイバーの視点から見れば、性別に基づくカテゴリーとしての女性へのコミットメントを動機づけているのは、売買春によって女性の身体部分が受けた被害であることは間違いないからだ。彼女たちを虐待した者たちは、はっきりと、身体のある部分を他の部分よりも標的にした。そして、虐待者たちは今後も間違いなく、同じ部分を標的に選ぶことだろう。

 GCフェミニストにとって、性別に基づく女性抑圧のこの具体的な恐怖は、いくら強調してもしすぎることはない。それどころか、ジェンダークリティカルな目的にとって、このスローガンを想起し、繰り返し語り直すことは、性階級としての自己意識を喚起し、女性解放のプロジェクトを前進させる手段となりうる。言いかえれば、このスローガンは、男性のセクシュアリティに関する共通経験の認識に基づいて連帯を促進することができる。もっと言えば、悪びれることなく排除的であるこの共通性に基づく性階級の一員としてのプライドこそ、新たな形で「女性の身体部分のフェミニズム」を推進することができるだろう。それは、売買春サバイバーたちの闘いを前景化し、「性別の生物学」の不可侵性を守り、回復するであろう。それは私たちが政治的に勝利するために必要なものなのである。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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