美に潜むミソジニーを暴く――シーラ・ジェフリーズ『美とミソジニー』

【解説】以下は、今年(2022年)の7月に翻訳出版されたシーラ・ジェフリーズさんの『美とミソジニー:美容行為の政治学』(慶応大学出版会)を紹介したものです。同書の韓国語版はすでに2018年に出版されており、その韓国語版序文は本サイトで翻訳紹介済みですので、併せてそれもお読みください。

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「私たちの文化では、女性の身体の中で手つかずの部分、変更されない部分はない。……。頭のてっぺんからつま先まで、女性の顔のあらゆる特徴、体のあらゆる部分が、修正、変更の対象となる」――アンドレア・ドウォーキン『女性憎悪』(1974年)

 イギリスの最も著名なラディカル・フェミニストの一人であるシーラ・ジェフリーズの著作『美とミソジニー』の翻訳がついに出版された。同書は2005年に初版が出され、2014/15年に大幅に内容が一新された新版が出され、2018年には韓国語版が出版されている。彼女の翻訳書としては日本初である。本書は、現代の西洋社会(もちろん、日本と韓国を含む)における女性の「美の基準」や日常的な美容行為に潜むミソジニーを徹底的に暴き出している。

 男性は日常生活において自由で動きやすい服装を身に着け、短く洗いやすい長さの髪をし、化粧をすることを求められていない。しかし女性はどうか? 髪は伸ばされ染められ、顔は全体として化粧され、眉毛は抜かれて書き加えられ、まつ毛はカールされたり、エクステンションをつけられたりし、頬や唇をさまざまな色で塗られ、ピアスを耳に(時に別の場所にも)つけられ、脇や足は(欧米では性器周りも)脱毛される。薄くて破れやすく、身体の一部が見えるような(そしてポケットのほとんどない)非機能的な服装を身につけさせられ、短いスカートや切れ目の入ったスカートを履かされ、パンプスやヒールなど歩きにくい靴を履かされる。胸は豊胸され、ボトックスや整形手術でシワが除去され、脂肪は吸引され、女性器の形を整えるためと称して、小陰唇が切除される(ラビアプラスティ)。まさに、アンドレア・ドウォーキンが言うように、「女性の身体の中で手つかずの部分、変更されない部分はない」。

 筆者のジェフリーズは、これらの行為は、自然のものでも、女性本来のものでもなく、ましてや女性をエンパワーする魔法の手段でもなく、男女間の外見上の明確な差異を創出しそれを強化することで、男性支配と女性の従属を維持するものだと主張する。それは、劣等な地位に置かれた性階級(女性)を一目で識別することを可能にし、女性を従属的で脆弱な地位に置く。

 美容行為は、国連がその克服を勧告している「有害な文化的慣行」の一つであると筆者は主張する。国連がこの言葉を使った時、念頭に置かれていたのは主として、第三世界で女性に強要されている女性器切除(FGM)やブルカないしニカブなどの伝統的慣習行為のことだった。しかしジェフリーズは、そのような有害な文化的慣行は欧米社会にも存在すると主張する。たとえばラビアプラスティは、女性器への侵襲性からしても健康にとっての有害性からしても、FGMと酷似している。化粧によって素顔を隠すのは、ブルカやニカブによって顔全体を隠すのと同型である。

 違うのは、前者が個人の選択の名のもとに行なわれ、後者が国家や家族や宗教によって直接的に強制されている点だ。だが、経済的にも政治的にも権力を持った男たちに気に入られなければ女性が社会的にまっとうな生活水準を獲得できない状況(それは今日でもあまり変わっていない)、歪んだ「美の基準」と美容行為を推進することで巨額の儲けを上げている美容・ファッション業界やメディア・広告産業の存在、そして女性は男性に奉仕するべきだとする常識を何世紀もかけてつくり出してきた西洋文化の力、これらのことを考慮に入れるならば、たとえそれらの美容行為が西洋では直接的には個人の選択としてなされているとしても、そのことはそれらを有害でない何かに、あるいは女性差別でない何かにするわけではないことがわかる。個人による選択によって性差別文化が媒介されている事実は、性差別の存在を否定するものではなく、逆に、性差別が個々人の主体的選択を左右するほどに深く浸透している事実を示すものである。

 そして、これら一連の行為や装いを社会的に強要するメカニズムにおいて駆動しているのは、ミソジニーに他ならない。ミソジニーの文化にあっては、女性は自分本来の姿かたちを嫌悪するよう教え込まれ、日々の美容行為を通じて常に男性を喜ばせ、性的に刺激するよう誘導されている。顔に何かを塗りたくるだけでなく、絶え間ない痛みや身体のゆがみをもたらすようなものを身につけさせたり、さらには身体を切り刻んだりさせるほどの暴力的な行為を自己自身に行使させる。ミソジニーの文化は男性の行動を支配しているだけでなく、女性にも深く内面化され、日々の行動を誘導し制約している。

 さらに言うと(この点はジェフリーズの著作では明示されていないが)、女性らしいとされている服装や格好の多くは、男性からの性暴力を防ぎにくく(あるいは逃げにくく)するという付加的機能をも有している。つかみやすい長い髪、薄くて破れやすい服、外部からのアクセスを容易にしているスカート、走りにくいヒールやパンプス、等々。服装だけでなく、女性らしい振る舞いや態度、女性的な規範とされているもの(遠慮深さ、謙虚さ、羞恥心、大声を出してはいけない、男性に恥をかかせてはいけない、等々)も、性暴力に対する抵抗を弱める機能を果たしている。

 この事実を指摘することはもちろん、女性が性暴力に遭うのは男性を挑発するような恰好をしていたせいだという古典的ミソジニーの論理を正当化するものではない。その逆である。ミソジニックな男性文化の悪辣さはまさに、一方では、女性に対して、性暴力に脆弱な装いや振る舞いをするよう社会的に強制しておきながら、他方では、実際に性暴力が発生した時には、その責任を被害者に負わせていることにある。これはたとえて言えば、資本家が労働者に軽装で危険な作業をさせておきながら、実際に労働災害が起きた時には、そのような軽装をしていた労働者を責めるようなものだ。軽装をさせられていた労働者に何の責任も問われるべきではないが、しかしだからといって危険な作業をするときに軽装であってもいいということにはならない。いわゆるスラットウォーク(本書『美とミソジニー』でも批判的に検討されている)が一面的なのは、ミソジニーの2つの規範のうち、後者にのみ異を唱え、前者にはむしろお墨つきを与えている点である。

 欧米におけるファッションや化粧を批判したこれまでの類書に見られない本書の独自の貢献は、欧米の美容行為を国連の規定する「有害な文化的慣行」として明らかにした点だけでない。本書の第5章「ファッションとミソジニー」は、ファッション業界をゲイの男性デザイナーが支配していること、そしてこれらのゲイ男性が深くミソジニーにとらわれ、自己の歪んだ女性像を自分のデザインするファッションに投影していることを詳しく批判している。さらに本書の独自な貢献は、そしてトランスジェンダリズムがリベラル・左派の世界を完全に制覇している今日、最も論争と攻撃を呼びそうなのは(そして、出版されて1カ月足らずで実際にその種の攻撃を呼んだのだが)、第3章「トランスフェミニニティ――男が実践する女らしさの現実」であろう。

 ジェフリーズは、同章において、男性の一部が美容行為や女装を熱心に行なっている事実は、本来的に女性のものとされている美容行為や装いが社会的に構築され、文化的に女性に強要されたものであることを示すものだと指摘する。一部の男性によってもそうした(ステレオタイプな)行為や振る舞いができることは、これらの人々が「女性」であることを示すものではなく、逆にそうした行為や振る舞いが女性とは本質的に無関係であることを示しているのである。トランスジェンダリズムの信奉者たちは、この点を決定的に理解していない。

 ジェフリーズはこれまでの科学的な調査・知見にもとづいて、トランスジェンダーの少なからぬ部分が、オートガイネフィリア(自己女性化性愛)であることを明らかにしている。彼らは、自分を女性だと思ったり、女性的な装いや振る舞いをしたり、さらには身体を女性に見えるよう改造さえすることで、性的な興奮や満足を得る。同書で引用されているトランス当事者の手記などには、まさにそうした傾向がはっきりと示されている。本書はトランスジェンダリズムを全面的に扱う書物ではなく、あくまでも美容行為の持つ社会的・政治的人為性を明らかにするために、それに触れているだけなので、彼女によるより本格的なトランスジェンダリズム批判については、2014年出版の『有害なジェンダー(Gender Hurts: A feminist analysis of the politics of transgenderism)』を参照していただきたい。あるいは、この方面での彼女の最新の分析としては、来月(2022年9月)に出版が予定されている彼女の新著『男根帝国主義(Penile Imperialism: The Male Sex Right and Women’s Subordination)』を待ちたい。

 ジェフリーズは、さまざまな美容行為が――豊胸手術などの侵襲性の高いものだけでなく、日常的なものも――、深く性産業よって影響されていることを明らかにしている。性産業は、「美容・ファッション複合体」と結びつき、さらにはテレビや映画・雑誌・ウェブサイトなどの「メディア・娯楽複合体」とも結託しており、女性の「美の基準」を定め、したがって美容行為のありようを支配している。筆者が憂慮するのは、そうした影響力が弱まるどころか、この10年間でますます進行していることである。そして、新自由主義ときわめて親和的なリベラル・フェミニストたちは、そうした美容行為やファッションを解放的なものとして賞賛すらしている。

 彼女たちはほとんどの場合、性産業そのものやトランスジェンダリズムをも賛美し、正当化し、推進しているのだが、それはけっして偶然ではない。この事実は、性差別的な美容行為、性産業、トランスジェンダリズムの三者に深い内的・構造的連関があることを示唆している。これらはミソジニーを支える3本の柱なのだ。本書は、そうした構造にメスを入れたきわめて貴重な書である。韓国の脱コルセット運動を解説した書物や論稿はそれなりに出ているが、この三者の不可分な関係を解明したものは見当たらない。それゆえ本書は、ラディカル・フェミニストの文献の中でも、いまだパイオニア的な地位を保っているのである。

 なお本書には、特別に著者自身による日本語版序文が付されており、筆者による最新の見解や関連情報について知ることができる。ぜひ手に取って読んでいただきたい一書だ。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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