【解説】グロリア・スタイネムさんに続いて、第2波フェミニズムのリーダー的存在であったロビン・モーガンさんも9月5日に85歳で亡くなられました。その追悼の意味を込めて、彼女の歴史的論文「理論と実践──ポルノグラフィとレイプ」の翻訳をここに掲載します。同論文は、もともと1974年に反ポルノ集会で行なわれた演説がもとになっており、その後、1977年に出版された彼女の著作『Going Too Far』に収録されました(Robin Morgan, “Theory and Practice: Pornography and Rape,” in Robin Morgan, Going Too Far: The Personal Cronicle of a Feminist, Random House, 1977.)。その後、『夜を取り戻せ(Take Back the Night)』という著作にも再録されています。
歴史的にフェミニズムの文脈でポルノ問題について語られる時、必ずと言っていいほど言及されるのが、この論文で用いられた「ポルノは理論、レイプは実践(Pornography is the theory, and rape the practice)」という言葉です。しかし、ほとんどの人はこれが登場する論文自体を読んでいません。これを読むことで、その言葉の意味もより深く理解することができるでしょう。
しかし、この論文はポルノを主として「理論」として捉えている点で重要な限界を持っていました。この点を突破したのが、ポルノは性暴力の理論(プロパガンダ)であり、かつ、性差別の制度的実践であると捉えたドウォーキンとマッキノンのポルノ論です。ポルノ被害はその制作過程から始まっているのであって、それがポルノとして販売・流通された後で初めて生じるのではありません。またこの論文は、レイプが、黒人に対するリンチと同じく、セクシュアリティにあまり関わらないものであるという立場を表明していますが(「レイプは暴力であってセックスではない」論)、これもスタイネムさんの場合と同じく、マッキノンとドウォーキンのセクシュアリティ論によって乗り越えられています。
また同論文は、ポルノに対する闘いとして、法による規制を「検閲」であるとして拒絶し、女性自身によるポルノ販売店などへのゲリラ闘争を推奨していますが、このような闘争方法は長続きするものではなく、限界があるのは明らかです。この点もマッキノンとドウォーキンによって乗り越えられ、政府による行政的規制(検閲に近いもの)ではなく、女性自身による民事訴訟という方法での法的規制(反ポルノ公民権法)という新たな道が切り開かれました。ロビン・モーガンはその後、この反ポルノ公民権法を支持する立場を表明しています。
最後に、グロリア・スタイネムやマッキノンと違って、ロビン・モーガンは最後までトランスジェンダリズムに屈服することなく、男は女にはなれない(生物学的には言うまでもなく、政治的にも)という立場を貫きました。ラディカル・フェミニストとしての彼女の生涯からして当然の帰結ですが、多くの者がトランスイデオロギーに屈している今日、特筆に値するものです。彼女はこの論文の中で「私たちはどうやら、全人類の世話を焼いてからでないと、自分のことを考えてはならないようだ」と書いていますが、この名言はまさに今日の「インターセクショナリティ論」にもズバリあてはまり、彼女の論文が何ら古臭いものになっておらず、今日的意義を持っていることを示しています。
女性にかかわる問題のうちで、レイプほど意図的に歪められたものはおそらくあるまい。なぜなら、レイプこそ、家父長制文化における男性セクシュアリティの完成された行為だからである。それは、支配、暴力、征服、所有の究極的メタファーである*。
*原注 もちろん、異なった文化的状況にいる男性は必ずしも同じではないであろうし、同じ文化のもとにある男性でも、すべてがすべて男性的な性的基準にしたがっているわけでもない。生物学的決定論は、フェミニストの科学者が現在の不均衡と偏見を正し、真に価値自由な調査研究を行なうまでは、あてにならないものであり続けるだろう。
しかし、レイプの最も陰湿な側面は、ある種の心理学的フィクションをともなっている点である。私たち女性はすべてこのようなフィクションに取り囲まれているため、サバイバルするためには、私たちの知っていることが嘘であると信じるふりをしなければならないほどである。このフィクションには多くのバージョンがある。いくつかの典型的な例を見てみよう。
一つは「可哀想なレイプ犯」という考え方である。このバージョンは、私たちを襲う連中に同情しなければならないと語る。彼は病んでおり、自分で自分をどうすることもできず、助けを必要としている、というわけだ。
たしかに彼は助けを必要としている(捕まった場合の話だが)。だが、その被害者はもっと、そして真っ先に、助けを必要としている。彼女は、「女らしくない」とみなされるのを恐れて、自分の身を守ることさえ許されていない。実に示唆的な話だと思うのだが、たとえば、遊び場で自分の子供が卑劣な年寄り(ないし若者)にいたずらされているのに気づき、レンガでその男を殴り倒した女性は、立派な母親とみなされる。「雌トラ、わが子を守る」というわけだ。しかし、同じ男がその女性に乱暴しようとしたならば、社会の見方からすると、彼女はその男を受け入れ、体を触られるのを楽しまなければならず、あるいは、どうしてもいやな場合には、やめてくれるよう愛想よく懇願しなければならないとされる。自分の子供を守るのは受け入れられるが、自分自身を守ることはそうではない。なぜなら、女性が、自分自身のことを第一に配慮することは利己主義の縮図であるとみなされるからである。私たちはどうやら、全人類の世話を焼いてからでないと、自分のことを考えてはならないようだ。だが、私たちは何よりも自分自身の世話をし、少なくとも自分の子供を守るのと同じぐらい勇敢に自分自身を守らなければならない。
第2の嘘である「抑えられない衝動」論は、「可哀想なレイプ犯」という神話の派生物だ。加害者はどこにでもいるごく普通の男(善良な小羊)であり、突然、女を襲いたいという衝動に駆られた、というのである。突然の欲情というわけだ。このような「抑えられない衝動」説に反駁するうえで指摘しておかなければならないのは、すべてのレイプの半分以上が住居侵入の状況下で起きている事実である。どう考えても、住居侵入するには多少なりとも事前の計画が必要だろう。
その他にも、いつもの決まり文句がある。曰く、すべての女はレイプ犯を愛している、すべての女はレイプされるのが好きだ、まともな女の子はけっしてレイプされない、常に女の側に落ち度がある、等々。時には、こっけいなほどの極論に行きつくこともある。たとえば、スラックスを履いている女は明らかに挑発しているのだとか、スカートは誘っている証拠だとか、通りを歩いているときに顔をしかめている女は男の注意を引きたがっているのだとか、愛想よくしているのは誘惑しているのだ、等々。むかむかするような、際限のない嘘の数々だ。そして、さらにこう言われる。そもそも女が夜中の11時に堂々と一人っきりで外を出歩くとは、いったい何ごとか。身のほどを知らないのではないか、と。
身のほどを知らせること、これこそレイプの伝えるメッセージである。それは、リンチが黒人に身のほどを知らせる手段であるのと同じである。どちらも、抑えられない衝動でもなければ、セクシュアリティ(性的なもの)でもない。両者は、繰り返し思い知らせることを通じて、ある集団の人々全体に身のほどをわきまえさせるための、意識的であると同時に無意識的な政治的テロリズムである。人種差別主義と性差別主義はレイプという結び目のうちに結合して、私たちの文化における最悪なものの象徴的表現そのものになっている*。
*原注 スーザン・ブラウンミラーは、その著書『私たちの意志に反して』(Susan Brownmiller, Against Our Will, Simon & Schuster, New York, 1975〔スーザン・ブラウンミラー『レイプ──踏みにじられた意思』勁草書房、2000年』〕)の中で、この点について深く、かつ勇敢かつ明晰に明らかにしている。
こうした「思い知らせる行為」は、時には無差別に、時には特別の理由があって選ばれた犠牲者の身に起こる。それゆえ、子供や70歳の老女が犠牲者となる無意味なレイプ殺人は存在するし、さすがにこの場合は誰も、被害者がレイプ犯を誘ったなどと言うことはできないはずだ。あるいはまた、複数のフェミニスト学生が過去4年間にキャンパスで餌食となったような意図的な「お仕置きレイプ」も存在する。これらの欲求不満のフェミニストたちに必要なのは、現実を思い知らせる(show ‘em the light)ための「よいレイプ」だという理論にもとづいた行為も存在するのである。
したがって、自分を襲った相手のことを女性が知らないことはめったにないし、レイプ犯がその被害者にとって見知らぬ他人である必要もない。ただし、嫉妬に狂った元恋人や元夫、学部の指導教官や上司や精神科医によるレイプを通報したときには、被害者は警官からたいてい受ける侮辱に自分一人で対処しなければならない。多くの警官は、明らかに楽しみながら、被害者に対して次のようなサディスティックで違法な質問をする。「君はそれを楽しんだんじゃないか?」。したがって、レイプ犯と知り合いであったことを──尋問によってか、あるいは自ら申告することによって──彼女が認めようものなら、激しい攻撃にさらされるのは彼女のモラルの方なのである。
しかし、ラディカル・フェミニストは、レイプの問題をこれらの実例よりもはるかに普遍的なものであると見ている。たとえば、私はレイプを、暗い裏通りや女性の家に押し入った男によって引き起こされる犯罪とだけみなすつもりはない。女性の側の真の愛情と欲望にもとづいて女性が主導権をとるのでないかぎり、レイプは性交が行なわれるときにはいつでも存在すると私は主張する。前半部の限定は重要である。というのは、「解放された女」というタバコのコマーシャルのことを私たちはよく知っているからである。この「解放された女」は、いわゆる性革命の産物であるが、実際にはどこにも存在しない。マディソン街〔ニューヨークにある広告業の中心地帯〕生まれの男性的ファンタジーによれば、その解放された女は、腹のつきだした男の体に欲情するグラマーな女でなければならない。多くの女たちは「解放された主導者」であるべきだというこの新しいプレッシャーに応えようと、自分自身の欲望にもとづいてではなく、古くからあるいつもの理由から、つまり、彼氏を失う恐れ、カマトトと思われる恐れ、彼のナイーヴな感情を傷つけてしまうのではないかという恐れ、要するに恐れから、性行為に応じている。したがって、女の側が主導権をとらなければならない(実際にそうでなくても、全体としての基調が)と私たちが言うとき、それが意味しているのは、彼女が実際に欲しているということであり、このことを強調するのは決定的に重要である。そうでないものはすべて、ラディカル・フェミニズムの定義によれば、レイプである。なぜなら、そこにはプレッシャーが存在しているからであり、そしてそれは喉元に突きつけられたナイフの刃である必要はない。それは、男の側の意味ありげな仕草であり、彼を不機嫌にすることの恐れであり、彼の握り締められた震える拳であり、あるいは、断ったときの男の自嘲的な冗談や怒りの非難や押し黙ったままの自己憐憫である。いったいこれまで何百万回女たちは、セックスしたいと思っていない相手と「進んで」セックスしてきたことだろうか。愛している男とでさえそうではなかったろうか。いったい何度女たちは、むしろ眠りたかったり、読書をしたかったり、深夜番組を見たかったりしたことだろう。明らかに、この定義にもとづくならば、アメリカ全土、きちんとした結婚をしている夫婦のベッドルームのほとんどは、毎夜行なわれるレイプの舞台なのである。
このようなノーマルでありふれたレイプは次のことを理解し認めるならば、あまり奇妙なものでなくなるだろう。すなわち、レイプの行為が、家父長制文化における標準的で、「健全で」、興奮材料でさえある男性的ファンタジーの単なる一表現であり、アグレッシブなセックスの一表現なのだ。そして、このファンタジーを10億ドルの産業にしたものこそポルノグラフィである。
市民的自由論者は、レイプ問題とポルノ問題との結びつきから目をそらし、スカンジナビア諸国に関するすっかり色あせた統計を持ち出している。その統計によると、ポルノが入手しやすくなればなるほど、レイプ事件が減少しているように見える。実際には、これは両者の結びつきを証明するものとみなすべきだ〔つまりポルノが蔓延することで、レイプがレイプに見えなくなる、警察も男性も、そして女性自身もレイプをレイプとみなさなくなるということ〕。私は何もここで検閲を推奨しているわけではない。私はいかなる形態の検閲をも嫌悪する(かつては、目的のためには検閲も正当な手段であると考えたときもあった。だがこれは常に思想統制の背後にある悪魔の論理ではなかろうか)。それに、男根中心的文化が、『彼女を引き裂いて殺す』のようなスピレーン〔アメリカのミステリー作家〕風の題名を持った本よりも、女性ための骨盤の自己診断本や、レズビアニズムへの叙情詩的讃歌を含んだ本をパージすることからその検閲を開始することの方が、よりありそうなことである。さらに私は、男性の支配する司法にも大して信を置いていないし、世間が何を読み何を見るべきかをジャッジすると称する裁判官たちの性格にもそれ以上に信頼が置けない。それどころか、検閲が往々にして結局のところ、男性判事たちが法廷に座って多くの猥褻本を手軽に読む結果になりかねないと私は思っている。これは解決にはほとんどならないと思う。一部のフェミニストは、女性問題担当大臣(この概念自体、物議をかもす概念だ)の任にある女性がポルノ規制に取り組んでくれるかもしれないと考えている。別のフェミニストは、地域社会による規制という考えに立ち返っている。どちらのアプローチも私には不安に感じられる。第1のアプローチに関しては、大臣クラスの公職に指名される女性が真のフェミニスト意識を持っているかどうかきわめて怪しいし、たとえ持っていたとしても、そのような行動をとれるほどの権限と、政権からの自立性を持てるかどうかも怪しい。第2のアプローチに関しては、個々の地域社会が個々の暴君と同じく検閲に際して無知で全体主義的かもしれない。この提案が私の積極的な支持を得るためには、地域社会による規制に先んじて多くの教育が行なわれなければならないだろう。明らかにこれは、単純な解決方法がそもそも存在しないこと、現実がその逆であることを示す一つの問題である。
しかし、女たちは異なった戦術をもって問題に対処しているようだ。検閲を避けつつ、ポルノ販売業者自身に打撃を与えることをめざし、客が店に行きにくくすることによってポルノ産業の儲けを減らすことをもくろんでいる。南部のある町では、女性はかなり機知に富んだ行動を計画した。地方のポルノ街に陣取り、本屋や映画館に出入りする男たちの姿を慇懃に写真に撮るという作戦である。彼女らは、非常に目立つカメラを使った。大きい、新聞報道用のカメラである。時には、恥ずかしそうに逃げる男を追って一ブロックほど追跡したこともある。ある女性グループは、わざとフィルムの入っていないカメラを使ってこの戦術を遂行した。目的は、男をおびえさせ困惑させることであった。しかし別のグループは、実際にフィルムを入れて現場写真を撮った。それから、男たちの「手配ポスター」を作成し、それを町中に貼りだした。それは、ポルノ購買者に激しい屈辱感を与えた。その中には地域社会の著名な有力者もいることがわかった。シアトルでは、女性の反ポルノ部隊はポルノ本屋に悪臭攻撃をした。そこの地方紙の編集部にはこの行動を支持する手紙が殺到し、その新聞の紙面はこの手紙でうまった。ニューヨークでは、3つのポルノ映画館が焼き打ちされた。
もちろん、大衆的ポルノ産業はますます発展していっている。解放された女という操り人形の焼直しとして、今や女性向けのポルノが売られている。あたかも私たちのセクシュアリティが、ちょうど『プレイガール』が『プレイボーイ』の模倣であるように、家父長的男性のセクシュアリティの模倣であるかのようである。しかし、このような俗物的ガラクタの推進者たちは、次のことを理解するなら、いらだちを感じることだろう。すなわち、多くの女性にとっては、『嵐が丘』〔1847年のエミリー・ブロンテによる小説〕が今なお真に性的興奮を引き起こすものであること、あるいは、アシュレー・ウィルクス(とりわけレスリー・ハワードによって演じられたそれ)〔アシュレー・ウィルクスは『風と共に去りぬ』の登場人物であり、1939年に映画化されたさい、レスリー・ハワードによって演じられ、善良だが優柔不断な人物として描かれた〕に忠実であり続け、あの野卑なレッド・バトラー〔『風とともに去りぬ』の男性主人公〕に魅了されることなどけっしてなかった女性が少なからずいることである。しかし、今日のポルノはますます洗練されたものになりつつある。普段は芸術映画を上映している真面目な映画館が今ではいわゆる「芸術系ポルノ」で儲けを上げている。ミック・ジャガー的なサディズム・スタイルの爆発的人気、女装した芸人の流行、「女っぽい身振り」の復活はすべて、フェミニストが要求してきたことに対するバックラッシュの一部を間違いなく構成している。FBIの統計で1960年代にレイプ事件が93%増加したことも偶然の一致ではない。女性が身のほどをわきまえるのを拒否すると、決まってこのメッセージがより大きな調子で繰り返されるのである*。
*原注 1975年10月1日付の『ニューヨーク・ポスト』紙は、「スナッフ・フィルム」あるいは「スラッシャー」と呼ばれる、女優が実際に殺害され、遺体が切断される場面でクライマックスを迎えるポルノ映画に関する全国的な捜査について報じた。同紙の記事によると、これらの映画は主に南米で撮影されており、「ポルノグラフィ愛好家の間」で流通しているようだ。そこでは「選りすぐりの顧客」が、8本のリールからなるコレクションに1,500ドルを支払う余裕があるという。同紙の記事から4ヵ月後、『スナッフ』というポルノ映画が、ニューヨークのブロードウェイにある初公開映画館で上映を開始した。「映画史上最も血みどろの作品」と宣伝されたこの作品は、一般大衆でも手に入れられる価格に設定されていた。いつものように、そのメッセージはメディアを通じて明確に伝わっている。
そして、このことは私たちにどのような影響を及ぼすだろうか? レイプが女性に及ぼす影響に関しては現在私たちは多少とも学んで知っているが、ポルノの影響についてはごくわずかなことしかわかっていない。いくつかの明白な傾向については指摘することができる。ゴーゴーガールやヌード・モデルやポルノ「女優」のための市場の拡大──これはこれで、女性の雇用に悪影響を及ぼす(服を脱ぐだけで大金を稼げるのに、どうして秘書などやらなければいけないのか)──、ポルノ産業と売春産業との境界があいまいになってきたこと、「処女か娼婦」というステレオタイプが壊れて「女はすべて娼婦である」という新しいステレオタイプに席を譲ったこと、したがって女性に対する敬意(たとえ歪んだものであったとしても)の最後の痕跡が一掃されたこと、信頼しあった深い関係に対する流行のオルタナティヴとして不倫や不貞が推進されていること、である。しかし、ポルノ映画やポルノ雑誌でもてはやされているような、今まで以上に相手をモノ扱いする形の性行為をするよう求める恋人や夫たちからのプレッシャーを、どのように位置づけるべきだろうか? 高学歴のリベラルな読者向けの雑誌で、アナルセックスや「フィスト・ファッキング」を始めとする「性的倒錯の自由」をほめそやす記事が増大している事実とどのように結びついているのか?*
*原注 明らかに、今(1976年)はやりのギャングスター(高校を中退した50代半ばの男)の「パンク・イメージ」はこうしたテーマに関係している。このイメージは『ビレッジ・ボイス』で「男らしくかっこいい」ものの復活として描かれている。
だが、その影響はどれほど遠大なものなのか? どれほど個人的で、また、どれほど普遍的なのか? 「個人的」というのは、たとえば、『ペントハウス』やそれよりも過激な雑誌をバスルームに隠し持ち、そうした雑誌から知ったことを夜な夜な妻に強制し(妻がうまくかわすと、別の女に押しつける)、挙げ句の果てに、おまえは不感症だとか、俺が浮気したのはおまえのせいだと言って妻を責めるような夫、そういう夫を持った女性の感じる特殊な屈辱感である。「個人的」と「普遍的」というカテゴリーは、最近恐ろしいほど増大している婚姻内暴力を十分に説明することができるだろうか(デル・マーチンの最も信頼できる著作『バタード・ワイフ』(Del Martin, Battered Wives, San Francisco, Glide Urban Center Publication, 1976)を参照せよ)。
「普遍的」という場合、それはあらゆる20世紀神学に影響を及ぼすほどのものなのか? だがそれは実際、知的巨人であるキリスト教神学者パウル・ティリッヒを通じて起きたことだ。彼のことは、その妻ハンナが書いた物議をかもした素晴らしい著作『時の移り変わり(From Time to Time)』(Hannah Tillich, From Time to Time, New York, Stein & Day, 1973.)の中で、非常に同情的だが容赦のない誠実さもって私たちの前に暴露された。彼の死後、ハンナ・ティリッヒはこう語っている。「私はすべての引き出しの鍵を開けた。若い女の子の写真、手紙や詩、情熱的な訴え、そして嫌悪を催させるものが大量にこぼれ落ちた」。彼の記録紙の下に隠されていたポルノ的な手紙からわかった彼のお気にいりの妄想は、女が裸ではりつけにされて鞭打たれている姿であった。さまざまな出来事も明らかになった。愛人、秘書たちとの性的な関係、売春婦との一夜の情事、彼を崇拝する女子学生たちに対する虐待──彼の足元にうずくまって、これらの「『天女』たちは……自分にはめられた鎖をカチャカチャ鳴らしていた」。
ハンナはこう書いている。「私は、こうした実生活におけるわいせつな記録を、高く評価されている彼のライフワークの神聖なページとページの間に置きたい誘惑にかられた。彼は、あたかもミダス王〔ギリシャ神話に登場する人物で、触れるものいっさいを黄金に変える〕のごとく、この実生活のわいせつな記録を抽象的概念の黄金に変えていたのである」。だが、ハンナ・ティリッヒは、そうする代わりに、あえて自分自身に関する本を書き、「血を流し蹂躙された女性性の一片」から自分自身の尊厳を錬金術的につくり出そうとした。そして彼女は、そうすることができたと述べている。
今や私たちは、ポルノグラフィが性差別的プロパガンダであり、それ以上でもそれ以下でもないと認めることができる。そこには、平安時代の日本の偉大な作家である紫式部(978年~1031年頃)が書いた『源氏物語』のような真にエロチックな芸術とはいかなる共通点もない。
ポルノは理論であり、レイプは実践である(Pornography is the theory, and rape the practice)。そして、それは何という実践だろうか。個々の女性を犯すことは、男性がさまざまなものに自らの意志を押しつけることのメタファーそのもの(the metaphor)となっている。すなわち、他民族全体に(戦争の核心としてのレイプ)、人間以外の生きもの全体に(狩猟とそれに伴う大量虐殺の背後にある欲望としてのレイプ)、そして地球そのものに(このことは私たちの言語にも表されている──たとえば「処女地」を切り開く。あるいは、露天掘りはしばしば「土地のレイプ」と呼ばれている)。
エレイン・モーガンは『女の由来』(Elaine Morgan, Descent of Woman, New York, Stein & Day, 1972.〔エレイン・モーガン『女の由来──もう一つの人類進化論』どうぶつ社、1997年。題名にある「Descent」は「由来」と「堕落」のダブルミーニング〕)という著作の中で、人類最初の犯罪は、聖書が言うところの殺人などではなく、レイプであったという説を出している。彼女は、この理論に関する興味深い科学的論拠を打ち出している。ロバート・ブリフォールトは『母たち』(Robert Briffault, The Mothers, 1927; New York, Grosset & Dunlap Universal Library edition, 1963.)という著作の中で、人間が動物界における品位ある〔雌雄〕同等な存在から進化的に「転落」したことを主張する同様の仮説を提出している。彼の出している証拠は、人類学的であるとともに、神学史的なものである。
クロード・レヴィストロースは複数の著作の中で、次のような複雑な理論を展開している。男性は他の男性と相互にコミュニケートするための動詞として女性を用いており(男性自身はもちろん名詞である)、レイプは、征服された部族の男性たちに敗北を伝える手段として行なわれる。つまり、力の差が圧倒的であるため、勝者から「自分たち」の女を守ることさえできない、ということである。この理論もまた、ここでの論点に関係しているように思われる。女性は男性にとって、自己に痛みを与えるこの世界──というのは、彼は貧しいからであり、抑圧されているからであり、狂っているからであり、あるいは単なる人間だからである──に対する怒りをレイプとして表現するための手段なのである。それでは、彼女の痛みはどうなるのか? 私たちは十分長い間、男性の同情を買おうと泥沼の中をあがいてきた。とっくの昔に男にストップをかけるべきだった。
対立は現在ますますエスカレートしつつある。なぜなら、もはや私たちは、自分たちを貶める広告や看板を見るのを避けるために視線をそらすようなことはしないだろうからである。もはや私たちは、歩道で下品な言葉をかけてくる男たちの前をおどおどしながら通り過ぎるようなことはしないだろう。こうした連中は無害ではなく、むしろレイプの理論を広めているのであり、その行為を実行に移すことができるという脅威によって支えられている。私たちはもはや、年齢や出身にかかわらず女性であるというただそれだけの理由で自分たちの心身に加えられる恐るべき犯罪の犠牲者になることに対して、罪の意識を抱くことはないだろう。あの最も親密で無防備で繊細な身体的交わりを征服と屈辱の一つに変えてしまうプロパガンダ〔ポルノ〕と行為〔レイプ〕は明らかに、家父長制が実際には私たちのことをどうみなしているかを女性たちに知らせしめる最悪の実例なのである。