ジュリー・ビンデル「生涯にわたるラディカル・フェミニスト、ロビン・モーガン追悼」

【解説】以下は、イギリスのラディカル・フェミニストでジャーナリストのジュリー・ビンデルさんによるロビン・モーガンの追悼文であり、『ガーディアン』に掲載されたものです。

ジュリー・ビンデル
『ガーディアン』2026年9月14日

 詩人、小説家、政治理論家のロビン・モーガンが85歳で亡くなった。彼女は第2波フェミニズムの中心人物だった。1976年からは、友人であり親しい協力者であったグロリア・スタイネムが創刊した影響力ある雑誌『Ms』の寄稿編集者を務め、1989年から1994年までは同誌の編集長を務めた。

 1967年、彼女はラディカルな活動家グループ「ニューヨーク・ラディカル・ウィメン」を共同設立し、翌年には「地獄からの女性国際テロリスト陰謀団(Women’s International Terrorist Conspiracy from Hell: Witch)」を設立した。同団体は、ストリートシアターやその他の行動を通じて、文化セクシズムに抗議した。1970年には、現在第2波フェミニズムの基礎テキストとみなされているアンソロジー『シスターフッド・イズ・パワフル(Sisterhood Is Powerful)』を編集し、得られた印税で女性団体を支援するための「シスターフッド・イズ・パワフル基金」を設立した。彼女はトータルで、3つの画期的なアンソロジーを含む22冊もの書籍を出版した。

 モーガンは、同世代のフェミニストの中で、男性の左翼カウンターカルチャーに潜むミソジニーを指摘した先駆者の一人だった。1970年に左翼ニュースレター『Rat』に掲載されたエッセイ「こんなものすべてにサヨナラ(Goodbye to All That)」では、いわゆる「性革命」と、女性に宣言のタイプ打ちやベッドを共にすることを求めながら、政治的な発言権を否定する男性ラディカル派の両方を痛烈に批判した。

 モーガンはフェミニスト運動において最も効果的で長く語り継がれるスローガンのいくつかを生み出した。その中には、「ポルノは理論、レイプは実践」という言葉があり、これはポルノグラフィに対する彼女の生涯にわたる反対姿勢を象徴するものであった。女性運動を「危険なもの」と特徴づける反フェミニズムのバックラッシュに対し、彼女はこう指摘した。「私たちは、男たちが警告してきた『あの女たち』そのものだ」。また、女性の視点から書かれた歴史を指す「ハーストーリー(herstory)」という用語を考案した。

 モーガンが初めて脚光を浴びたのは、「ニューヨーク・ラディカル・ウィメン」による直接行動だった。1968年、彼女はニュージャージー州で開催されたミス・アメリカ大会に対する抗議行動の組織化に協力した。その際、女性たちはブラジャーやガードル、掃除用具を「フリーダム・トラッシュ・カン(自由のゴミ箱)」に投げ込んだ。火はつけられなかったにもかかわらず、この行動がきっかけとなって、フェミニストは「ブラ焼き女(bra burners)」という蔑称で呼ばれるようになった。

 フロリダ州レイク・ワースで生まれたロビンは、店員だったフェイス・バークレーと産婦人科医のモルデカイ・モーゲンシュテルンの娘だった。2人は結婚しておらず、フェイスは妊娠を隠すためにニューヨークからフロリダへ移り住んだのだ。ロビンが初めて父親に会ったのは20歳の時だった。

 叔母に勧められて子役モデルとなり、5歳から芸能活動を開始した。ニューヨークのラジオ局WORで自身の番組『ザ・リトル・ロビン・モーガン・ショー』を持ち、1950年から1956年にかけては人気テレビ番組『ママ』で主演を務めた。10代になると反発し、演技の世界を離れて著述家を目指し、16歳でニューヨークのコロンビア大学で非正規ながら文学の勉強を始めた。彼女はライティング・ワークショップに参加し、そこでゲイ解放戦線の創設者の一人である詩人ケネス・ピッチフォードと出会った。1962年に結婚し、1990年に離婚するまで連れ添い、1969年には息子のブレイクが生まれた。

 かつて左翼革命家だったロビンは、1960年代に新たに結成された女性団体に参加した際、メンバーたちをマルクス主義に改宗させることを目的としていた。しかし、実際には彼女自身がラディカル・フェミニズムに改宗することになった。彼女は連帯活動への情熱をけっして失わなかったが、その政治的立場はもはや紛れもなく彼女自身のものだった。

 『悪魔を愛する者──テロリズムのセクシュアリティについて』(1989年)〔邦訳は河出書房新社、1992年〕において、彼女は左右双方の男性による暴力とミソジニーとの関連性を指摘した。「街頭テロリストによる無差別殺人と、殺戮的な国家テロリズムを結びつけるのは、気取ったマチズモという共通の指標だ」と彼女は記した。また、『ケンカ言葉──宗教右派と戦うためのツールキット』(2006年)では、キリスト教原理主義に対しても同等の勢いで立ち向かった。

 2005年には、スタイネムやジェーン・フォンダと共にウィメンズ・メディア・センターを共同設立した。その目的は、メディアにおける女性と少女の表現機会と積極的な参加の両方を向上させることだった。

 2008年、彼女は「Goodbye To All That #2」という記事を公表した。これは、ヒラリー・クリントンが民主党大統領候補指名争いに立候補していた際に彼女に向けられたミソジニーについて論じたエッセイである。クリントンの娘チェルシーによって大量に転送され、この文章は瞬く間に広まった。「私はヒラリーに投票する」とモーガンは書いた。「彼女が女性だからではなく、私が女性だからだ」。

 2015年、彼女は性産業における女性の性的搾取に関する会議を主催した。会場はアトランタのカーター・センターで、これは元米国大統領ジミー・カーターが人権促進のために設立した組織である。カーターとの親交をきっかけに、彼のウェブサイトにポルノ批判の文章が掲載された――元大統領としては初めてのことであった。また、カーターはモーガンの週刊ラジオ番組『WMC Live』に初めて出演した男性ゲストでもあった。

 私が彼女と初めて会ったのは1997年、マンハッタンのカフェでの集まりだった。そこではアンドレア・ドウォーキンがグループをまとめ、刑事司法制度を通じて強姦犯に責任を問う方法について話し合っていた。物腰が柔らかく、彼女はフェミニストとしての名声を気取ることなく受け止めていた。彼女には自己中心的なところは微塵もなかった。かつて彼女は、自分の最も重要な仕事は次世代の政治活動家を指導することだと私に語ったことがある。彼女が特に大切にしていたのは、「シスターフッド・イズ・グローバル研究所」だった。これは1984年にシモーヌ・ド・ボーヴォワールと共に設立されたフェミニスト系シンクタンクであり、グローバルなレベルで女性と少女の生活を改善する団体のために資金を集めている。

 反ポルノ研究者であり活動家のゲイル・ダインズは、モーガンについて「彼女はポルノグラフィをラディカル・フェミニズムの理論と政治の最前線と捉えていた。……第3波の失敗について語り、家父長制の物質的・イデオロギー的な代弁者であるポルノを見逃すことが、いかにフェミニズムを破壊するかを説いていた」と述べた。

 2007年の『ヒューマニスト』誌のインタビューで、ラディカル・フェミニストであるとはどういうことか尋ねられた際、彼女はこう答えた。「非妥協的であることを恐れず、怒ることを恐れないことだ」。

 彼女の詩集『ダーク・マター』(2018年)は、老い、死、そして回復力を探求した。彼女は2010年にパーキンソン病と診断され、息子によれば、死ではなく、衰えていくことを恐れていたという。

 世代交代の問題について、彼女は断固とした姿勢を示した。「人生のエネルギーを注いできた運動の主導権を握り続けたいと願うのは、人として当然のことだ」と彼女はかつて語った。「自分のトーチは自分で手に入れなさい」、バトンを渡す時が来たことをほのめかした若い女性に向かって彼女はそう言った──「私はまだ自分のものを使っているのだから」。

 遺族には息子のブレイクがいる。

 ロビン・エヴォン・モーガン、詩人、著述家、フェミニスト活動家。1941年1月29日生まれ、2026年9月5日没。

出典:https://www.theguardian.com/world/2026/sep/14/robin-morgan-obituary

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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