【解説】以下は、イギリスの『ガーディアン』の2006年9月21日号に掲載された、イギリスのラディカル・フェミニストでジャーナリストのジュリー・ビンデルさんによる「ジョセフィン・バトラー」に関する記事の翻訳です。ジョセフィン・バトラー(同じ「バトラー」でもクイア理論家のジュディス・バトラーと混同しないようにしてください)は、イギリスにおいて公娼制度と闘い、児童買春廃止のために努力してそれを実現した偉大なアボリショニストの先駆者です。
ジュリー・ビンデル
『ガーディアン』2006年9月21日
1864年、暗くて臭いリヴァプールの救貧院(workhouse)で、1人の華奢な女性が数十人の売春女性や未婚の母親といっしょに床の上に座っている。女性たちは、その行為〔売春や未婚のまま子供を産んだこと〕の罰として、古いロープからぼろぼろの繊維を抜き取る作業をしており、彼女はその手伝いをしているのだ。彼女の名前はジョセフィン〔ジョゼフィン〕・バトラー。やがてその生涯において生きた伝説となる人物である。だが今日、女性史やヴィクトリア朝時代の歴史について関心のある人々を除けば、バトラーのことを耳にしたことがある人はほとんどいないだろう。しかし、彼女こそ、イギリスにおける最初の反売買春運動家であり、わが国の最も偉大な社会改革家の一人であり続けている人物なのだ。

バトラーを救貧院へと導いたのは、被抑圧者の権利のために闘おうとする彼女の情熱であるが、そのきっかけとなったのは、つい最近彼女の身に起きたある悲劇的事件である。彼女の4人の子どものうちの1人、まだ6歳の娘が、バルコニーから落下して亡くなったのだ。「私は、外に飛び出して、自分自身の痛みよりもつらい痛みを見つけ出したいという抑えきれない衝動に駆られた。自分よりも不幸な人々に会いたいという衝動にだ」と、後年彼女は書いている。
彼女の死から100年、ロンドンの女性図書館は本日〔2006年9月21日〕、売買春に関する大規模展を開催する。そこには、バトラーの生涯と功績を取り上げたコーナーも存在する。彼女がその先頭に立ったさまざまな運動――性的人身売買、子ども買春、公娼制度に反対する運動――は今日も継続している。そして、彼女が今日なおフェミニズムの「影のヒーロー」の一人にとどまっているのはおそらく、彼女が、同時代におけるサフラジェット〔急進的女性参政権論者〕のドラマチックさとその相対的に論争の余地のない成果の両方によって影が薄くなってしまったからかもしれない。
長年にわたり、一部の訳知り顔の連中は彼女のことを神経質な反セックスのクリスチャンと書いてすましているが、ジョセフィン・バトラーは、当時「人間の屑」とみなされていた女性たち――売春婦やその他の「転落女性」〔未婚の母、不倫女性など〕――のために闘い、被買春女性と子どもを性的に利用する男の権利に異議申し立てをした重要人物である。女性にまだ投票権もなかった時代に、彼女はその生涯を通じて巨大な社会的・法的改革を実現した。彼女は国中を旅し、ヨーロッパ各地を回り、人々を鼓舞し、現地の諸団体を行動へと駆り立て、さまざまな集会で――女性たちの小さな集まりから、数百名もの労働者が参加した市民集会に至るまで――多くの演説を行なった。
1828年、ノーザンバランド州〔イングランドとスコットランドの境界にある州〕の、アッパーミドル階級に属するリベラルな家庭で生まれたバトラーは、奴隷制廃止運動に積極的に参加していた両親〔父親は経済学者のジョン・グレイ〕から奴隷制がいかに恐ろしいものであるかを聞いて知っていた。彼女は、小中学校の校長をしていたジョージ・バトラーと結婚した。ジョージは、当時にあっては非常に珍しいことに、男女平等の観念を支持していた。2人はリバプールに引っ越した。同地では、工場労働が不足していたために、貧しい女性たちは子どもを養うためにしばしば売春をせざるをえなかった。敬虔なクリスチャンとして、バトラーは、「すべての人は神のもとに平等である」と信じており、売買春の中で女性たちがどのように扱われているかを知って愕然とした。彼女はまた、使用人の少女たちが主人によってしばしば性的に虐待され、妊娠すると貧困のまま打ち捨てられていることに激しい嫌悪と怒りを感じた。

街頭や労役所で売買女性たちを助けながら、バトラーは最も絶望的な状況にある女性たちを自分の家に引き取り、しばしばそのまま死を看取った。「転落女性」を改宗させることを意図した宗教的な拘置施設をつくろうとしているのではないかと疑われたバトラーは、寄付金を集めて、独自の非宗派的な「休息の家」を設立した。売買春を虐待だとみなしていた彼女は――この観点は今日でも論争対象である――次のように書いている。「これらの貧困で不幸な女たちを貶めることは彼女たちだけの貶めになるのではない。それはすべての貞淑な女性たちにとっても打撃となる。それは私に対してなされる侮辱行為であり、世界のすべての国のすべての女性たちを辱めることである」。
売買春を規制する法律――当時、売買春は合法だった――は野蛮そのものだった。1864年に制定された伝染病予防法〔伝染病法、検黴法、性病予防法、感染症予防法などとも訳される〕は軍隊における梅毒の蔓延を防止することを意図していた。この法のもとで、軍都として指定された都市ではどの女性に対しても強制的に性病検査を受けさせることができた。男性は、検査に抵抗するだろうということで検査しなくてもよいことにされた。売春婦だとみなされた女性は当局に通報され、感染していることがわかったら、病院に3ヵ月間拘置された。もともと売春婦ではなかったのに、このような処分を受けたせいで、性産業に入ることを余儀なくされた女性の事例も数多く存在した。
売買春行為に対するこの性的ダブルスタンダードは、男性は罪を問われることなしに売春女性を用いることができるのに、女性の方は罰せられるということを意味するものであり、そのことに嫌悪感を抱いたバトラーは、同法を廃止するためのキャンペーンを主導した。この闘争に勝利したのち――同法は1886年に廃止された――、バトラーはこの運動を当時イギリスの植民地であったインドでも展開した。インドでは、現地の女性たちが英軍によって買春されていたからだ。
彼女は、長年にわたって個々の政治家や急進派、医者や看護婦からの大いなる支援を得たが、同時に暴力的な憎悪のターゲットにもされた。リヴァプールには大いに繁盛している売春宿がいくつもあり、そこから大金を稼いでいた連中は自分たちの商売へのバトラーの干渉にはお手柔らかではなかった。彼女は、集会で演説しているときにピンプ〔売春業者〕によって牛糞を浴びせられたこともあった。別の時には、男たちの一団が、彼女をおびえさせようとして、彼女の宿泊しているホテルの窓を割って回り、火をつけるぞと脅した。
だがバトラーは怯まなかった。女性の悲惨さから国家が金を儲けるなんてとんでもないことだと論じて、売春宿を公認しないよう政府に訴えた。フェミニストで国際的性産業に反対する運動家であるシーラ・ジェフリーズは、バトラーが驚くほど時代の先を行っていたと考えている。「今日でさえ、売買春が、女性ではなく男性によって生み出されたのであり、彼らのために保護されているのだと言う大胆さを有している者はほとんどいません」。
1869年に彼女は「全英婦人協会」を結成したことで、バトラーはイギリスにおいて最初に世間に認められたフェミニスト活動家となった。それ以前の50年間、一部の女性は反奴隷制の運動や禁酒運動、女性参政権運動に参加してきたが、彼女らは誰も公然と男性やその性的振る舞いを批判したことはなかった。
2001年にバトラーの伝記を出版したフェミニスト歴史家のジェーン・ジョーダンは、バトラーはその時代にあって売春女性を対等な存在とみなした例外的な人物であったと述べている。「彼女が1980年代にフェミニストによって再発見されたとき、彼女が自分の助けていた女性たちに対して上位の支援者として振舞っていたと揶揄されましたが、彼女は女性たちに対して敬意をもって接し、彼女たちの抑圧の原因について注意深く議論をしたのです」。

バトラーは、これらの女性たちが、たとえ一部は貧困によって売春に駆り立てられたのだとしても、家父長制の犠牲者であるとはっきり自覚していた。伝染病予防法の廃止のためのキャンペーンの始めた頃、バトラーは一男性に「そもそもあなたに売春婦を更生させることができるんですか」と尋ねられた。彼女はこう答えている。「売春女性が時おり私のところにやって来て、こう尋ねるんです。男性をそもそも更生させることができるのでしょうか」と。
ジェフリーズはバトラーのことを、歴史上最も勇敢で最も想像力に富んだフェミニストの一人であったとみなしている。「バトラーは、男性の支配する国家に対して男性客を守るような売春システムを作らせるのではなく(それは男たちの振る舞いを公式に是認することになる)、男たちこそが変わらなければならないと男たちに語ったのです」とジェフリーズは語る――「これは、世界中の政府が再び性産業の合法化を求めつつある現在、想像しがたいことです」。
1875年、それまで無数の「転落」女性の命を助け、法律を女性のために変えることに貢献したバトラーは、大陸ヨーロッパに渡って、商業的性搾取と公娼制度に反対するキャンペーンを当地の女性たちともに遂行することを決意した。彼女は、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ベルギー、オランダの各国に影響を与え、それらの国で女性連盟が結成され、バトラーに促されて行動へと足を踏み出した。売春女性の市民権のための新たなキャンペーンがヨーロッパ中で展開された。これらの女性たちの多くにとって、これは公共的領域における最初の活動だった。その結果、国際的なアボリショニスト運動が形成され、それは今日においても、女性と子どもの人身取引に反対する闘争を続けている。
ヴィクトリア朝時代のイングランドでは性のことを公共の場で論じられることはけっしてなかったし、とりわけバトラーの階級の女性たちにとってはそうだったのだが、バトラーは定期的に私秘的な性の問題について公開演説を行なった。女性は自分たちのセクシュアリティのような問題を男性に任せるべきではないと彼女は信じていた。その結果、リベラルな友人たちの多くは彼女のことを遠ざけるようになり、ある国会議員は彼女のことを「普通の売春婦よりも質(たち)が悪い」と言いなした。
1880年、バトラーは子ども買春の問題にも注意を向け、同意年齢を12歳から16歳へと引き上げることに成功し、多くの少女たちを性的虐待から守った。彼女はまた、ベルギーとイギリスとの間で子どもたちが人身売買され、未成年の処女がロンドンの通りで売買されているというスキャンダルを暴露することに貢献した。
「バトラーが生きていれば、今日の、売買春を『セックスワーク』とみなしたり、性産業のノーマル化と拡張を進めるような議論をまったく奇怪なことだとみなしたことでしょう」とジェーン・ジョーダンは言う――「そして彼女は、自分が達成した巨大な前進の後に、どうしてこのような大きな後退が可能になったのかを知りたがることでしょう」。
出典:https://www.theguardian.com/artanddesign/2006/sep/21/art1
「ジュリー・ビンデル「ジョセフィン・バトラー:私たちの時代のヒロイン」」への1件のフィードバック