キャサリン・マッキノン「人身取引、売買春、不平等」

【解説】キャサリン・マッキノンの『バタフライ・ポリティクス』に所収の「人身取引、売買春、不平等(Trafficking, Prostitution, and Inequality)」の注なしバージョンです。『論文・資料集』第Ⅱ期第2号(通巻12号)に収録したものと基本的に同じですが、部分的に短縮するとともに、訳文に多少の改善を施しています。また、You Tube にある同じテーマでの講演動画も下に入れておきましたが、ここで紹介した翻訳と同一ではありません。注ありの最新バージョンの訳はこちら

キャサリン・マッキノン「人身取引、売買春、不平等」、シカゴ大学での公開講座(2011年)

 人身取引を擁護する者は誰もいない。性的人身取引を擁護する明確な立場を取る者はいない。不平等をあからさまに擁護する者を見つけ出すのは困難である。だが売買春はそうではない。それは論争の対象となっている。一部の人々はそれに賛成であり、積極的に支持している。より多くの人々はそれを大目に見ることが政治的に正しい態度だと信じており、それに関して効果的な何かを実行することに反対している。ほとんどの人々は、たとえ売買春が完全に望ましいものではないとしても、必要であり、無害であり、何よりも、不可避的なものだとみなしている。

 私の分析と見解に基づくなら、売買春に対する見方が人身取引をめぐる議論を構造的に規定している。売買春が人身取引と区別されているのか、それともその一形態とみなされているのか、あるいは、売買春が人権とみなされているのか、それとも人権を否定するものとみなされているのか、あるいは、売買春が性的自由の一形態とみなされているのか、それともそうした自由の究極の侵害行為だとみなされているのか、をめぐる議論である。

  売買春をめぐる5つの区別

 世界のどこにおいても、売買春をめぐる論争は、その根底にある5つの道徳的区別によって構成されており、これらの区別が、売買春における本当に悪いものとそれほど悪くないものとを分割している。成人の売買春と子供の売買春〔児童買春〕との区別、屋内での売買春と屋外での売買春との区別、合法的な売買春と非合法の売買春との区別、自発的な売春と強制売春との区別、売買春そのものと人身取引との区別、である。道徳主義者の観点――これはまたしてもこの論争に深く浸透しているのだが(人々はこのような道徳的支えなしにはこのテーマについて考えることができないようだ)――からすると、子供の売買春はつねに子供にとって有害であるが、成人の売買春は常にそう悪いわけではない。屋外ないし街頭での売買春はかなり暴力的なものになりうるが、屋内での売買春(自宅や売春店でのそれ)はそれほどひどくはなく、おそらくかなりまともなものになりうる。非合法の売買春はさまざまな問題を伴うが、合法的な売買春ではそれらの問題は解決されるだろうと想定されている。強制売春は非常に悪いものだが、自発的な売春はそれほど悪いものではない。人身取引は本当に悪いものだが、売買春は、自発的で屋内でなされ合法的で成人に限定されているかぎり、一部の人々にとっては許容可能な生活になりうる、と。

 すでに実証されている諸事実に照らすなら、これらの区別なるものはおおむね幻想的なものとして現われる。実際には、それらは連続した線上に位置しており、かなりの程度、相互に重なり合っている。しかしその幻想性にもかかわらず、これらの区別は法、政策、実生活にきわめてリアルな影響を及ぼしている。

  2つの基本的立場――セックスワーク論と性的搾取論

 各国の内部でも国際的にも、この論争においては2つの根本的な立場が――多少二極化して言うならば(だが実際この論争はきわめてはっきりと両極化している)――存在する。セックスワーク論(sex work model)と性的搾取論(sexual exploitation approach)である 。売買春がセックスワークという用語で名づけられると、それはたいてい「最古の職業」、文化的に普遍的なものと理解され、お金が支払われているので同意があるものとされ、スティグマ化されるのは非合法だからであるとされ、他のあらゆる職業と同じ一つの仕事であるにもかかわらずそうした認識が拒否されているとみなされ、時には解放の一形態だとみなされている 。セックスワーカーは、そのアカデミックな擁護者が「エージェンシー(主体性)」と呼ぶものを体現している。このつかみどころのないジャーゴンは多くの意味を有しているが、ここではどうやらこの「エージェンシー」が、自らのさまざまなライフチャンスの中で自由に選択し、積極的に自己をエンパワーし、決定していること、挑戦的な仕方で自己肯定していること、女性らしさの押しつけに対して反撃していること、道徳主義的ステレオタイプに抗っていること、そしておそらく性的平等の一種のモデルにさえなっていることを意味しているようだ。こうした見解によれば、「セックスワーカー」と呼ばれるこの主体的行為者たち――その大部分は女性――は性交渉をコントロールし、女性から通常は無償で得られると期待されている行為と引き換えに金銭を得ており、自立した生活をし、多くのパートナー――その役回りはたいていは男性によって独占されているのだが――と匿名かつ自律的なセックスを行なっている。したがって…、それは女性にとって解放的である、と。

 それとは対照的に、性的搾取論は、売買春を〔「最古の職業」ではなく〕「最古の抑圧」であり、広く蔓延した性的不平等の一制度であって、その中で根源的なものであるとみなしている。「売春婦(prostitute)」という名詞はここでは、ミスリーディングであり侮辱的であるとみなされる。それにあっては、その人が誰であるかとその人に対して何がなされているかとが等置されている。そこで、それに代えて、これらの人々自身に焦点を当て、これらの人々に押しつけられている社会的強制力を強調するために、「買春された(prostituted)」という過去分詞表現が用いられる。この用語は、被害者としての地位をアプリオリに帰属させるものではなく、性売買(sex trade)に関する、そこにいた女性たち自身からの豊富な情報に基づいたものである 。彼女らが売買春をやめると――これらの人々は「脱出した」女性と呼ばれる――しばしば自ら実態調査を企図し実行する〔アボリショニストの多くは元当事者〕。性的搾取論によるならば、売買春の中にいる人々は、除外された選択、制限された選択肢、否定された可能性を通じて「買春された」のだと――実証的なエビデンスに基づいて――みなされる。

 性的搾取論においては、売買春はたいていの場合、選択の欠如の産物であり、最も選択肢が少ないかそもそも選択肢のない人々が頼る手段であるとみなされる。その背後にある――身体的および非身体的な――強要こそが、性的虐待の一大経済部門をつくり出すのであり、そこで得られる利得の大部分は被買春女性とは別の人々に行く。買春される人々はしばしばそこから何も得ないか、ごくわずかなものしか得ない。この取引において貨幣はセックスを強要するものであって、それに対する同意を保障するものではない。このことは売買春を連続レイプの一実践にする。そこには平等と呼べるものは何もない。金で買われるセックスの代償を払うのは〔買い手ではなく〕買春された側の人々である。買う側の人間は、自分が奪ったもの、ないし手に入れたものの代償を払わない。売買春の中にいる人々は、この性的搾取論においては、本来は搾取者に属するべきスティグマを不当に背負わされているのである。

 それぞれの理論はそれに照応する法的アプローチを有している。セックスワーク論は、さまざまな形態の合法化を伴った包括的非犯罪化を支持している。たいていは一定の国家規制を伴い、時には最初の段階として組合への組織化を伴っている。その目標は性産業におけるあらゆる行為者から刑事的制裁を取り除くことであり、そうすることで、売買春を他のあらゆる生計手段と同じく正当なものにすることである。オランダ、ドイツ、ニュージーランド、オーストラリアの一部の州、またネバダ州の10のカウンティがそうなっている。ただし、これらの国と地域の一部(オランダを含む)は、それらの国が意図していなかった種々の弊害が生じていること、そして意図していたような恩恵が何一つ生じていないことを取り上げて、合法化政策から後退しつつある 。

 性的搾取論は売買春の廃絶を目指している。問題はその最良の方法が何であるかである。〔女性を〕売る側、すなわちピンプや売春業者だけでなく、買う側、すなわち売買春の需要側を犯罪化しつつ、買春された側、「売られた側」に対するいかなる種類の制裁も撤廃して、これらの人々が望む種々のサービスや職業訓練を提供すること、これがスウェーデンを先駆とするアプローチの中身である 。このアプローチは同じくアイスランド、ノルウェーでも採用され、韓国でもそれに近いものが導入されており、イスラエルと南アフリカで導入が検討され〔その後、2018年末にイスラエルで導入が決定された〕、スコットランドの議会で議論されている。フランスの下院ではすでに採択され、上院に上程されている〔フランスでも採択され、後に憲法裁判で合憲判断が下された〕 。こうしてそれは世界を席巻しつつある。

 このスウェーデン・モデルにとって、買春者を犯罪化して処罰することと少なくとも同じぐらい決定的なのは、買春される側を非犯罪化し、これらの人々に対するあらゆる処罰を撤廃していることである 。このモデルは、今では十分に実証された現実的で有望な結果を示しており、ますますアボリショニスト(売買春廃絶主義者)によって支持されている。それは今や、この運動の原理的および実践的な最前線をなしている。

  売買春の決定因

 人はこの問題においてあれこれと自分なりの考えを持つことだろう。だが、各人が有する志向、関心、価値観、政治的意見、経験とは別に、それぞれの理論に対して性産業に関する一連のエビデンスに照らして判断することができる。その多くは論駁しがたいものであり、その大部分はサバイバー自身によって提供されたものだ。性産業に入っていったときの諸状況、そこでの待遇の諸現実、そこから脱け出す可能性に関するエビデンスである。

 どこにおいても被買春者たちは、わずかな例外を除いて、圧倒的に貧しく、たいていは極貧者である。この点に関していかなる見解の相違もない。切羽詰まった金銭上の必要性こそが、性売買の中に入ったことの最も頻繁に語られる理由である 。貧しさゆえに売買春に入るが、売春によって貧困から抜け出せた者はほとんどいない 。性産業の中にいる女性たちがよりいっそう貧しくなり、より多くの借金を抱えることになるのも珍しいことではない。そして、死亡率の高さを考えれば、そこから生きて抜け出すことができれば幸運である。カナダでの研究によると、被買春女性の死亡率は全国平均の約40倍である 。

 売買春の中にいる人々が、社会的に不利な立場に置かれた人種ないし民族集団の一員であったり、より低いカーストの出身者であるパターンは不釣り合いに多い 。カナダのバンクーバーでは、被買春女性のうち北米先住民が占める割合は、彼らが住民全体に占める割合よりもはるかに高かった 。インドでは、カースト制度が違法であるにもかかわらず、売春者のカーストが存在する。たとえばナート・カースト〔ダンスや芸をするカースト〕の女性メンバーは選ばれて家族内の男によって売春させられる。ナートの男性たちは、より高いカーストの男性たちのためにナートの女性たちを売春婦として斡旋することを期待されている 。誰も貧困を(ガンジーには失礼ながら)選んではいない。誰も、自分が生まれついた人種的・民族的集団やカーストを選んではいない。売買春の中にいる人々に降りかかっているこうした諸状況――それらはこの産業で使用されるのが誰なのかを最も強力に決定している――は、これらの人々によって選ばれたものではない。

 売買春のもう一つのグローバルな共通点は――そしてこの事実についても誰も異論を唱えていない――、売春に入るのはたいてい若年者であり、多くは成人年齢よりもずっと低い年齢の時だということだ 。私がインドで会った女性の場合、そのほとんどが最初に買春された年齢は10歳だった。これは、自分の残りの人生に関する決定を下す十分な力を持った年齢ではないし、大人たちが自分に対してなすことをやめさせる十分な力を持った年齢でもない。ほぼどの国でも、子供の頃の性的虐待――たいていは親密圏でのそれ――は、人々を売買春に追いやる主な条件である 。インドでは、女性たちは自分たちがこうむった最初の性虐待について語ってくれたが、それらは事実上彼女らの最初の性的経験であり、10歳の時の売買春の中で起こったものだ。彼女たちは、その時あるいはその後で抵抗すると、集団レイプや拷問を加えられたと語ってくれた。最初の時点でピンプたち――この場合、被害者の父親がそうかもしれない――による極端な虐待がなされることも普通のことだった。カーストとしての地位と子供時代の性的虐待とはここでは同じように機能する。すなわち、両者とも彼女らに、自分自身、自分の人生が何のために存在するかを語るのである 。コルカタ〔旧称カルカッタ〕では、13歳前後の何十人もの少女たちが赤線地域〔管理売春地域〕でずらっと並んで客待ちをしている。かつて私がそこに行ったとき、狭い路地に目をやると、小さな裸の少女が座って両足を大きく広げているのが見えた。彼女は小さな股間を通りに向けて広げていた。彼女はいったいいつそうすることを選択したというのか?

  セックスと売買春

 売買春がどのような言い回しで擁護されているのかを見ていて気づいたことがある。これは――約40年間もそうする必要がなかったのだが――実はセックスを定義するいい機会なのではないかということだ。セックスそのものは選択され望まれたものであり、強要されたものではないと仮定しよう。おそらくこれが、売買春の支持者たちが性的な言い回しで売買春を擁護したがる理由である。だが自分がセックスしたいと思っている誰かとセックスする時には、そもそもお金を渡したりもらったりしないと想定してもおかしくないだろう。セックスが本当にそういうものなら、これはお金では買えないものの一つであり、売ることも買うこともできないはずである。この点からすると、セックスが生きていくためのものである場合――「生きるためのセックス(サバイバル・セックス)」 はしばしば売買春の別名として使われる――、このセックスは生きていく必要性によって強要されたものである。女性が本当に性的平等権を有しているならば、セクシュアルハラスメント禁止法はこの取引を人権侵害だと認めるだろう 。

 核心は次の点にある。セックスそのものから得られるのは、その行為そのものだということだ。こんな風に考えたのは私以外に誰もいなかったのだろうか? これはこの不平等な世界においてはあまりにも無邪気でセンチメンタルなものなのではないか? ちょうどそう思いはじめたころ、売買春に関するナミビアの法について研究した文献に出会った。同法は売買春を、非性的な対価と引き換えになされる性的行為と実に簡潔に定義していた 。何とシンプルな定義であることか! セックスに対する本来の対価はセックスそのものである。人権としてのセックスがありうるとすれば、それまさに、相互的であってすぐれて平等な営みであるがゆえに、セックスそのものが報酬であるような、そういうセックスをする権利であろう。明らかに、現在、世の中には、セックスそのものが相手への報酬とはなっていない相手とセックスをする男がごまんと存在する。というのも、わざわざ金を出して主として女性と少女を、時には男性ないし少年を性的に使用する男たちがいることを私たちは知っているからだ。そしてほとんどの場合、そのお金は結局別の男たち〔ピンプや売春業者〕のポケットに流れ込む。

 規模に関してだが、コルカタにおける売買春の中にいる女性たち――数の上ではアメリカ合衆国と大差ない――が私に語ったところでは、彼女らは1日に平均で20人から30人の男の相手をする。セックスするかしないか、どの男とするかということに関するいかなる選択権もない。1週間のうち2日の休日があるとしても――そのような慈悲が示されるのは例外的だが――、個々の女性たちは1年間で8000人もの男を相手にすることになる。常連もいるだろうから、実数はもう少し少ないだろうが。

  買春者の暴力と警察の暴虐

 ここで需要側の問題について話したい。彼らこそ性産業が存在している理由である 。その中には暴力的な者や、感染症を患っている者もいる 。彼らはみな不可視であり、というのも彼らは匿名性をもった真のプライバシーの中で好きなところに出向くことができ、女性の買い手として表に出ることはないからだ。ほとんどの言語においても、彼らは、その存在をズバリ指すような特別の名称(スラングを別にして)を持っておらず、立派に聞こえる言い方でしかその存在を表現できない。彼らに適用される言葉――客、顧客、買い手、デート相手、ゲスト、馴染みの(ナートの女性たちはヒンドゥー語を使ってそう言っていた)乗客――はいずれも、買春者ではない人々にも使用される言葉である。アメリカでもそうであり、買春者は実在の男性名を与えられている。私たちの国では彼らは「ジョン〔以下、「買春男」と訳〕」と呼ばれている。「買春男(ジョン)」は、被買春女性の生を不健全かつ危険なものにしている。

 支払いがなされている性的取引に加えて、多くの被買春女性は買春男たちによってレイプされている、つまりこの場合は支払われてさえいないという意味でだ 。彼女たちは、抵抗したり辞めたいという意思を現わしたりすると、犯罪組織のメンバーによって、あるいはピンプや家主によって殴られるし、買春男の買いたいセックスが虐待的なものである場合には、買春男によっても暴力を受ける 。警察からの保護などまったくなく、ほとんどどの地域でも警察は時おり現場に手入れを行ない、あろうことか被害者であるはずの彼女らを逮捕する。直接の逮捕理由はその時々でさまざまだが、いずれにせよ彼女らは、被害を受けたことが理由で逮捕されるのである 。すなわち強要されたことが罪とされるのだ。買春された子供でさえ、今なお被害者としてではなく犯罪者とみなされるのはまれではない。変わりつつあるとはいえ、アメリカの多くの地域でもそうだ 。多くの地域では、未成年の子供とセックスをすることは法定レイプと呼ばれているのに、少女がセックスのために売られている場合には、彼女は犯罪者として逮捕され調書を取られるのである。

 人種差別文化においては、有色人種の売春女性は不釣り合いに多く逮捕される可能性が高い 。それと同時に、警察は多くの地域で日常的に賄賂をもらって売春業者を守ってやっている。この買収に用いられるお金のためにどれほど多くの女性が犠牲をこうむっているかを本当によく考えてほしい。そして、女性たちが逮捕されると、ピンプや売春業者が彼女らの保釈金や罰金を立て替えるので、女性たちはたいていさらなる借金を背負い込むことになる 。このことは、公的機関が女性たちの債務奴隷状態に加担していることを意味しており、憲法と国際法との観点からすれば公的機関が性差別のネットワークの一翼を担っていることに他ならない。そして、これは女性たちが売春から脱け出すことをいっそう困難にする。なぜなら彼女らは今では公的な犯罪歴の持ち主になっているからである 。

  屋内と屋外という区別

 セックスワーク論者たちはしばしば、自宅や売春店での屋内売買春は、売春者により多くのコントロールする力を与えると主張する(しかし彼らは時おり、事実的根拠なしに、次のようにも主張する。買い手を犯罪化することは売買春をより危険なものにする、なぜならそれは売買春を屋内へと追いやり、したがって地下に追いやることになるからだと 。実際には、屋内で行なわれることで何らかの保護や力が女性に与えられるというのは幻想である。〔因果関係が〕逆なのだ 。たしかに路上の女性たち〔街娼〕は、性産業の国際ヒエラルキーにおいて底辺をなし、コールガールやエスコートガールなどはヒエラルキーの頂点におり、ゴージャスな装いにより多くのお金を支払える男性向けの人々である。売買春のこのような階層構造は一定の現実性を持っているが 、屋内と屋外との区別はその代理としては貧弱なものである。彼女らを危険に追いやっているのは天気ではない。路上の女性たちは買春男に関してあまり選択肢を持っていないが、売春店の女性は普通まったく選択肢を持っていない。彼女らは指名用にラインナップされ、男がその中から選ぶのである。売春店には監視カメラが設置され――そうだ、ピンプたちはこのライブポルノを観ている――と各部屋には非常ボタンが設置されているが(高級な店ほどボタンの数も多い)、それらは彼女らをすぐ助けることにあまり役立っていない 。屋内売買春は赤線地域において増殖している支配的形態であるが、ピンプがよりコントロールできるようになり、より責任が免れるようになる。

 屋内/屋外という区別はイデオロギー的に、あらゆる伝統的政治の道徳主義者たちにとってお気に入りの次のような幻想を育むよう機能する。すなわち、高級な装いをしている売春女性は、実際に上層階級並みの生活を送ることができるのだという幻想である。彼女たちは自由な選択権を行使しており――もしかしたら〔売春という〕悪い選択かもしれないが――、けっこうな支払いを受け、自分でも楽しんでおり(「そういうのが好きな」女もいる)、いつでも好きな時にやめることができ、気をつけていれば比較的安全であり、強要されたり傷つけられたりしない、少なくともそれほどひどくはない、と。それを否定する多くの実証的データ が存在するのは別にしても、私の気持ちを言うと、そんなにいいものなら、道徳主義者は自分でもぜひやってみるべきだろう。

  「被害最小化」アプローチ

 最近まで、セックスワーク論者たちは売買春にそもそも何らかの被害があることを否定していた 。被買春女性およびサバイバーたちがさらされてきた現実――それは(知られているかぎり)、彼女らが世界のどのクループの女性たちよりも多くの暴力にさらされていることを示している――に圧倒されて、最近では時おりわずかなりとも被害の存在が認められるようになっている(もっとも、たいていその非合法な地位に原因が求められているのだが)。 「被害最小化」ないし「被害軽減」アプローチと呼ばれるものがそれであり、ニュージーランドで顕著に見られるものだ  。ちなみに、これらの用語〔被害の「最小化」や「軽減」〕は、一部の被害が今後も残ることを前提にしている。その最大の使命は、被害を取り除くことによって売買春そのものが存続できるようにすることである。この二つ〔売買春と被害〕を分離することができるとすればの話だが。

 このアプローチをとる諸グループは、HIV/AIDS関係の莫大な国際基金を吸い上げている 。売買春が商業的性搾取とみなされるならば、それがAIDSに帰結するケースは、売買春に伴う症候群として、売買春そのもの――すなわち、女性たちが現実にコントロールできない状況下で年に何千人もの男性とセックスをすること――が原因であるとして理解されるだろう。それとは対照的にセックスワーク論は、致死性をもった病を女性に感染させる買春者から女性を守るのではなく、買春者を女性から守り、そうすることで病気になることなく女性を使用し続けることができるようにするのである。誰もが女性の被害を減らすことを支持している。だが、被害の根絶はセックスワーク派の目標ではない。というのも、それは性を売ることと両立しないし、そのことを彼らは知っているからである。

 路上であれ売春店であれ、合法であれ非合法であれ、被買春女性の心的外傷後ストレス障害(PTSD)の発症率は、戦場からの帰還兵、拷問被害者、レイプ被害女性における発症率と同じ水準である 。

 PTSDは、被害者が精神的に耐えられないような暴虐から生じる。しばしば解離が起こるのも当然である。侵害行為を自分から切り離し、身体的に離脱できないがゆえに精神的に離脱し、それを忘れ抑圧し否定する、あるいはそれが自分の内部に存在しないかのように振る舞う。だがそれは存在するのだ。被害者は、そのことを知っている自己――街に出てそれをしている自己――を、日々あるいは夜ごとをやりすごすために抹消する 。しばしばドラッグやお酒が同じ理由で使用される。それは、繰り返しぶり返すトラウマの痛みをマヒさせるためであり、実際になされたことから身体と精神を多少とも遠ざけるためである。だがそれは、次にハイになるためにピンプに金銭的に従属することになる 。

 売買春において常態化し実際に蔓延している虐待のせいで、生きていくためには自我と世界から自己を解離させることが必要になる 。別の自我を形成して、それに別の名前を与えるかもしれない。このような別の自我を作ることで、売買春を行なうことを擁護するかもしれない。はっきりとした意識をもって、ありのままの自分で生きていくことができないなら、これははたして自由と呼べるだろうか? 絶えざるレイプに従うこと、そこにとどまらせるために殴られること、他の選択肢を追求するのを妨げられること、拷問室のトラウマを維持しつづけること、それをやり過ごすためにドラッグを使用すること、これは雇用の意味することだろうか?

  性的奴隷制

 文化の違いを超えて、また経済発展がどの水準にあるのであれ、路上であれ屋内であれ、合法であれ非合法であれ、組合があろうがなかろうが、自分に最も必要なのは何かと質問された際に、売買春の中にいる人々がごく自然に発する答えの89%(平均値)は、こうだ。売買春から抜け出したいけど、どうすればいいかわからない、と 。彼女らが自分自身の国にいるのであれ他の国にいるのであれ、どのような形で性産業に入ったのであれ、脱け出すことのできない売買春の状況の中にいることは、キャスリン・バリーによって的確に規定されたように、性的奴隷制の中にいることである 。

 多くの女性は自分の出身国で売買春に従事しているが、より豊かな国には、他の国から来た貧困であえいでいる家庭出身の女性たちも多い。いい仕事に就けると言われてやって来たが、気づいたら売春店に閉じ込められている。彼女らを他の誰かに売る者がおり、買う者がいる 。その後、彼女らは誰かに所有されながら、別の誰かに所有物として有料で貸し出され、性的に使用される。このような事象や仕掛けはエキゾチックなどこかの遠い場所だけで起こっているのではない。それらは〔売春が法的に禁止されている〕アメリカ合衆国の至るところで繰り返し起こっており、〔売春が合法化されている〕オーストラリアでもそうだ 。

 奴隷制とは、一個人に対して所有権が行使されることであると国際的に定義されている 。ピンプがセックスのために人を買春男に売ったり、その人が脱け出したくても脱け出せない状況にいるならば、その人は国際法上の定義にもとづく性奴隷である。殴られていようがいまいが、国境を越えていようがいまいが、それは関係ない。

  売買春の核心としての性的不平等

 これまで、売買春を、階級、人種、カースト、年齢といった種々の不平等の一制度として分析してきた。その中の男も女も貧しく、若く、不利な立場にある階級や人種グループや指定カースト〔インドのカースト制度の中で最底辺の諸カーストのこと〕のメンバーである。たしかに一部の男性は性を売る側〔買われる側〕にもいるのだが、数的にはおよそ女性に匹敵するものではない。そこで次のような問いに行きつく。どうして被買春者はこれほどまでに女性ばかりなのか?  その答え――そしてそれは別の論争問題であったなら驚くほどわずかな意見の相違しかもたらさない――は性的不平等の存在である。一部の女性は、女性という性的カースト の内部で他の女性たちよりも高いランクにあるかもしれない。このようなヒエラルキーは人種、民族、宗教、階級にもとづいており、彼女らの性的使用においてもそうである。女性たちは、女性と呼ばれるこのカーストの中で這い上がろうと苦労し、それ〔カーストとしての地位〕を避けたり、その存在を否定したり、あるいはそれが自分自身に適用されるのを拒否したりする。そのことに失敗しその底辺に落ちた人々が売買春の中にいる。そこにいるのは、セックスのために使用される人々であり、セックスのために使用されるということで定義される人々である。あらゆる困難に抗して売春婦になろうと頑張る人は誰もいない。彼女が売買春の中にいるのは、困難が彼女を打ち砕いたからである 。

 もし売買春が選択なら、その選択を行使する男たちがもっとたくさんいていいはずである 。少年も性的に虐待されたり、買春されたりするが、その少年たちでさえ成人になれば、成人男性として有している選択肢――それは必ずしもいいものとはかぎらないが――はほとんどの女性たちが有している選択肢よりもましなのである。ほとんどの被買春者が共有しているあの単一の属性、セックスのために売られる原因となるあの単一の最も強力な要因、すなわちその人の生まれついての性別〔女性〕は選択されたものではない。あるいは、トランスジェンダーであれば、これらの人々が転換ないし自認している性別には、高給の雇用を得るのを妨げる差別的待遇が結びついている。

 世界的規模の性的不平等は、男性という性別集団に属するほとんどすべての人に、セックスのために売り買いされるということが自己の運命として定義されていないという特権を与えている。少なくとも、〔売買春に従事するようになった場合でも〕何かまずいこと、よくないことがその人の身に起こったのだとみなされるのであって、けっして、その人の生まれながらの性質や価値が(その人の置かれた状況によって)実現されたとか現実化したとはみなされない。男性はまた、女性を売り買いすることを選択することができるという特権をも有しており、その売り買いの対象には成人男性や子供(男女とも)も含まれている。これはリアルな選択である。性産業が存在しているのは、膨大な数の男たちが――誰も彼らにそうするよう強制していないのに――、この自由な(条件づけられているとしても)選択肢を行使しているからである 。せっかくの機会なので言っておくと、セックスしなかったせいで死んだ人間はまだ誰もいない。

  何が売り買いされているのか

 それでは、売買春において売り買いされているものは正確には何だろうか?(興味深いことに、誰かが「身を売る」と言った場合、誰しもそれが何を意味しているのかを知っている)。売買春においては、主として一部の男性が女性たちを他の男性に、彼女らへの性的アクセスと権力行使のために売っている。それは「言われた通りのことをする」セックスである 。買い手が買うのは、いかなる口答えもしないセックス用の女であり、彼女に対して一個の人格として接する必要がなく、一方的に奉仕されサービスを受け、スイッチを切って解離した人格、すなわち本当の意味ではそこに存在しないそういう匿名性のプライバシーの中にあるセックスである。ちなみに、こうした被買春女性の表情は、ポルノグラフィの中の女性の表情と同じである。虚ろで、心ここにあらずといった――そして男たちが「セクシー」とみなす――あの表情である。これらの女性は行為の最中に天井のひびの数を数えたり、時計を見たり、何か別のことを考える 。これは、女性にとって真にセクシュアルなものなど何もないセックスである。男の方は、たくましくてセクシーで抗しがたい俺のためにこの女はまさにこれをしたくてここにいるのだという都合のいい幻想を抱いている 。

 公平を期しておくと、実はほとんどの買春男は女性がセックスを楽しんでいないことを知っている。私たちは彼らについても聞き取り調査をしたが、彼らは実に饒舌であった。彼らは、女性たちがそこにいるのは大部分が経済的必要のためであることを知っている 。しかし、注意せよ。彼らは、彼女たちがしたくてしているわけではなく、他に可能な選択肢がないからしているだけであることを知っているにもかかわらず、その行為は「同意」にもとづくものと思っている 。これこそイデオロギー的立場であろう。

  「同意」とは何か

 自由主義哲学における「同意」とは、支配する側が支配される側に課すルールを正当化するために使われる用語であり、とりわけ国家を正当化するために――そこにおいてたとえば女性がまったく発言権を持っていなかったとしても――使われる用語である。支配される側は、反抗したり逃げ出したりしなければただそれだけで――本当に異論を唱えたり脱出することが可能であるかどうかにかかわりなく――、この「同意」なる行為を行なったとみなされる。法において、「同意」が求められるのは、その行為が当人にとって必要かもしれないが、合意なしにやれば有害になったり本質的に危険である行為(体にメスを入れる場合のように)である場合である。セックスはそういうものではないが、男たちはどうやら女にとってはそうだと思っているようだ。現実を直視しよう。「私たちは同意した」という言い回しは、楽しみとしての性的相互行為について表現する言い方ではない。「同意」というのは、自由な人々のあいだでのセックスにとって貧弱でみじめな基準である。売買春をめぐる論争の中で「同意」という概念が果たしているのは、女性が性的に望んではいないセックスをしていることを知っている男性の気分をよくすることであり、そうした行為をビジネスにとって(そして同様に男性支配にとって、つまりは男性のルールにとって)適合的なものにすることである。売買春の中にいる女性たちにとって、自分がしているセックスは性的に虐待された子供のセックスと似ている。つまり、自分よりも力を持った相手が押しつける場合以外にはけっしてしないであろうセックスである。

 「同意」というのは本来的に不平等な概念である。婚姻内のセックスを含め多くのセックスは不平等であるかもしれない(もっとも、結婚への同意をセックスへの同意とみなすという古いルールは、多くの地域ではもはや尊重されていない)。しかし結婚には出口がある。離婚と呼ばれる出口が。しかしそれに匹敵するものは売買春にはない。力の行使によって強制される不平等なセックスについては、何事かをなすことができるとみなされてきた。たとえばレイプと呼ばれるものがそれだ。第三者による束縛にもとづいて売買される不平等なセックスについても何事かをなすことができるとみなされてきた。それは人身取引や売春斡旋と呼ばれている。有給の雇用労働の場で経済的生存のためになされる不平等なセックス――セクシュアルハラスメント――については、私たち自身が何事かをなしており、今では性差別と呼ばれている。私たちがここで論じている、純粋に生存のためになされるセックス――売買春――についても、私たちは何事かをなすことができるはずである。

  売買春は「労働」か?

 売買春は他のどの仕事とも同じではない。一個の人格に対してなされうる性的な接近と侵入に対して需要側に制限を課すことは、人権法と労働法の核心そのものであり、その目的である。売買春も一つの仕事であるという理屈に部分的にもとづいて売買春を合法化するのなら、失業手当を受けるためには合法の売春店ないし性産業のその他の形態で女性が「働く」ことを必要とするはずだが、私の知るかぎりではどこでもそうなっていない。ほとんどの国や地域でも、失業手当の受給者は就業可能な仕事を進んで受け入れることを求められているにもかかわらず、である。

 しかるに、この論争において、売買春は労働であるという観念は啓発的な類似例を際限なしに生んでいる。どうやら同じような発想は世界中の人々の頭の中に自然に生まれてくるようだ。曰く、売買春が問題だというなら、トイレ掃除には問題がないと言うのか? 有害廃棄物の処理はどうか? 工場の事故で腕を失うことだってあるじゃないか? 橋げたの建設では死ぬことだってある、云々。こういうことを言う人々は、これらの仕事や労働条件を擁護したことはない。それ以前もそれ以降もだ。これらの人々は、売買春は、貧困で恵まれない女性たちにとって遺憾だが受け入れ可能な選択――これらの人々は非常に賢明で寛容で思慮深いので、政策の問題としてこの選択を擁護するわけだ――であると示唆することによって、先に列挙した仕事を暗黙のうちに擁護しているわけだが、しかしこれらの人々は、もしこれらの仕事をしているのがみなある特定の〔歴史的に差別されてきた〕人種であったり、不法滞在の移民であったり、ましてやその89%が辞めたくても辞められないと訴えているとしたら、真っ先にそれは人権侵害であるとみなす人々なのではないだろうか? これらの仕事のいずれも子供の時の性虐待によって準備されたものではない(もしかして学者の世界はそうなのか?)。いずれも売買春におけるようなPTSD発症率をもたらしはしない。このような理論操作が共有しているのは次のような基本的前提である。「誰かがそれをしなければならない」。だが、トイレ掃除や工場や橋の必要性についてあれこれ論じなくとも、一つのことだけはたしかである。売買春の中で行なわれていることをしなければならないような人間は1人もいないということだ。それがなくなっても、一部の男たちが今日はヤレないというだけのことである。諸君、それは想定可能であるし、実行可能でさえある。そして、同情に値する男性の中のどんなサブグループといえども――たとえば障碍者の男性――、自己の性的満足のためだけに身体的侵犯に利用できる他の一集団をキープしておく権利など持ってはいない。売買春はレイプと同じく不可避なものではない。

 売買春と労働とを分かつ線が時おり曖昧なものに見えるのは、性的に侵害されることが――たとえそれが終わった後でお金が相手に投げ与えられるとしても――一つの仕事であるからではない。そうではなく、女性が行なっている仕事の多くが――私たちの利益に反して――性的なものにされているからにすぎない。このことが区別不能という観念を大いに醸成しているのである。それだけではなく、多くの労働に性的搾取が含まれているからであり、労働のために売り買いされる多くの人々が最後には性産業に行きついているからでもある 。

 単なる労働というアナロジーは、そこに関わっている諸関係を看過するものでもある。すなわち、それがセックスであることであり、それが問題全体の核心をなす。奴隷制は、そこでなされている労働を労働でないものにするわけではないが、そこに関わっている〔強制的〕諸関係はそれを単なる仕事にはしない。とはいえ奴隷制の中の労働はやはり労働である。組合への組織化も、誰がどのように使用されるかを変化させはしないし、辞めることをより容易にもしない。もし売買春が労働であり、一個の人権なら、債務労働もそうである。債務労働も労働に関わっているし、その過程の一つ一つにおいて一定の選択がなされている。このことは、それを単なる仕事にするだろうか? 福祉国家に対するオルタナティブになるだろうか? あるいは人権侵害ではないものになるだろうか?

 さらに、このアナロジー部門においては、アカデミズムの私の同僚たちの中にも、あたかも性を売ることは、考えたり書いたりすることとそれほど違わないと言う者がいるが ――われわれはみな自分たちの一部を売っているというわけだ――、そういう人々に対して言いたいのは、現実世界における売買春は抽象物ではないし、これらの人々が安直に利用するためのメタファではないということだ。暴行率や死亡率がまったく違うという点は別にしても――教育現場におけるセクシュアルハラスメントの蔓延を念頭に置いた場合でさえ、これはかなり大きな留保だ――、またその活動においてセクシュアリティを顕示する度合いがまったく異なっている(願わくば)ことは別にしても、さらには、誰かを法学教授にするために頭に銃を突きつける者など誰もいないという事実を別にしても、私たち――少なくとも私たちの一部――は「言われた通りのことをする」学問をやっているわけではない。

  反売買春は反セックスか?

 セックスワーク論の支持者たちはしばしば、売買春に反対する者はセックスに反対する者だと言う 。彼らが語るセックスとは、まさに私が虐待として描いている現実のことである。これはまるで、レイプに反対するのはセックスに反対することだと言うようなものだ。それどころか、彼らは実際そう言っている。この同じグループは時には次のようにも言う。あらゆる虐待、レイプ、殴打は、私たち――イデオロギー的に動機づけられ、性的に抑圧され、セックスパニックに陥っているビクトリア朝的堅物女、娼婦として成功するのに必要なものを持っていないだけの不平屋――によってでっち上げられ誇張されたものである、と 。ピンプもどうやらでっち上げられたものらしい。被買春女性は、これらの人々の見解によれば、独立事業主である。なるほど、だから一部の者はマネージャーを雇っているのだろう 。

 その後、HIV/AIDSの問題がやって来て、これらの人々でさえ被害の存在を発見したのだが、それと並んで、それに対処すると称して大きな金づるを手に入れた 。彼らにとって好都合なことに、この疾病にかかるのは、買春男たちによって顔中に精液をぶちまけられる女性たちだけでなく、女性を使用する男性もである。見事なまでにジェンダー中立的で男女対称的である。今やインドの悪質きわまりない店舗型の売春システムはそのまま維持されなければならない。そうでないとどこにコンドームを配ればいいのか? インドの性的人身取引は、ビル・ゲイツがコンドームの配布に3000万ドルを費やして以降、300%も増大した 。女性たちが本当にこれらのコンドームを使用することができるのか、それともそれを使わないという選択肢以外のいかなる選択肢も持たない女性の価格が高騰するだけなのかについて、彼らの中で追跡調査した者はいるのだろうか?  このコンドームというのは、売買春に伴う人権侵害をも封じ込め隠蔽することによって、世界を売買春にとって安全なものにすることを提案する予防的セックスワーク論の象徴なのではないだろうか。

  セックスワーク論は子供の買春を否定できるのか?

 売買春に本来的に内在する被害を否定する議論が最初に出くわす難点は、子供は買春されるべきではないと彼らが認めたときに生じた。これはセックスワーク論者が今ではお決まりのように行なっている譲歩である 。しかし、彼らのうちの誰も、子供をセックスのために売買することの何が本当に問題なのかを語ったことはない。ただ「よくない」と言うだけである。だが、もし売買春が自由で平等で解放でエンパワーメント的なら、もしそれが女性の人生をより自律的で独立したものにするのなら、その弊害が偶然的ないし無視しうるほどわずかなものであるのなら、そして被害を最小限にし、封じ込めることができるのなら、いったい全体どうして、子供たちがそれをすること〔児童買春〕やそれをされているのを見ること〔児童ポルノ〕がよくないことだと言えるのか? 誰も言えないはずだ。そして、もし子供たちが売買春に巻き込まれることがよくないことなら、彼女が17歳から366日だけ年を取ったとたんに突然いったい何が変わるのか?

 実際のところはこうだ――そしてこのことは誰もが知っている。もし誰一人として子供の時に性産業に入ることができなくなったとしたら、性産業はたちまち深刻な人手不足に陥るだろうということだ(このことは遡及条項〔過去にさかのぼって被害を認定すること〕を魅力的なものにする)。ほとんど女性が子供のときに、そして子供時代に受けた性的侵害の結果として性産業に入っているが、このことを否定しようとした者はほとんどいない。否定されているのは、成人の売買春を当人がもはや小さな少女ではないという理屈で擁護することは、継続する人権侵害を支持することであるという厳然たる事実である。

 性売買(sex trade)において成人と子供は2つの分離したグループではない。これらの人々は時間軸の2つの地点にいる同一のグループである。子供時代の性的虐待の一つの結果――売買春の内外で女性たちが抗っている結果――は、性的に侵害されたときに、そのことで価値を認められ承認されたと感じることであり、それと同時に根本的に恥辱を感じ、貶められ無価値なものにされたと感じることである 。子供時代の性的虐待は、売買春こそが自分の居場所であると当人に思わせる。その一方で、法、政策、大衆文化は、被害者が同意できる大人としてすますことができるまで長生きするのをただ待っているだけなのだ。売買春の被害を児童買春という形態でのみ認めることは、売買春の内在的被害が継続するのを可能とするための戦略的退却〔全体を正当化するために部分的に譲歩すること〕である。

  売買春と人身取引

 セックスワーク論者による第2の譲歩は、売買春を擁護しながら性的人身取引を批判することであった。しかし、人身取引とは何か? 国際的にはパレルモ議定書の定義 が全世界で採用されている――アメリカ合衆国でさえ採用された。それによれば、、強制力、瞞着や欺もう、強要を通じて、商業的セックスのために性的に搾取されることがそこに含まれる。この定義および性産業の現実には「権力の濫用や脆弱な立場の利用」を通じて性的に搾取することも含まれている 。カースト、人種、年齢は「脆弱な立場」になりうるし、言うまでもなく、貧困、性、ジェンダーもそうである 。性的人身取引は、性的搾取を目的として人間を移送し、移動し、蔵匿し、収受することであり、そのように定義されている。これこそまさにピンプや業者がやっていることである。法的権限のライン〔国境ないし州境〕を超えることは人身取引の国際的定義ではないし、少なくとも1949年以降そうではなかった 。人身取引であることの必須条件はしたがって、国境を超えることでもなければ、深刻な暴力が行使されることでもない。第三者が関与することである。自分で自分を人身取引することはできない。このことは人身取引を、理論上、一部の売買春から区別する。性的搾取は奴隷制でもありうる。なぜなら奴隷制とは、国際的には、一個の人間に対して所有権を行使することだからである 。自分で自分を奴隷にすることもできない。

  北欧モデルか合法化か

 ほとんどの国や地域では、売春者は〔買春という〕被害を受けたことを理由にして犯罪者にされている一方で、彼女らに被害を与えた側はたいていの場合、法律上ないし事実上おとがめなしである。スウェーデンがなしたことは、売買春を女性に対する暴力であるとみなして 、買い手を強力に罰したことである。すなわちセックスの購買を犯罪とみなし、それを執行したことである 。スウェーデンは性産業から脱け出すことを望む人々に一定のサポートを提供するよう同法を拡充した 。ただしこの面に関してはもっと多くのことが可能だろう(フランスの法案ではありがたいことに、この支援の面ははるかに充実したものになっている) 。売春女性の犯罪者性を一掃することは彼女らの地位を引き上げ、買い手を犯罪者化することは彼らの特権を引き下げる。このことゆえに同法は、その趣旨と効果の点で実体的な性的平等法であると言えるのである 。同法のおかげで路上売春は半分以上減少し、全体としての売春の数も劇的に減った。スウェーデンはそのおかげでヨーロッパで最も低い人身取引発生率の国になった 。同法が発効してから10年後、スウェーデン政府はこの法が期待通りに機能していると結論づけた 。売買春のスティグマは買春客へと移された。性産業の側がパニックに陥って、同法についてあれこれとウソを振りまいているが、スウェーデン・モデルは売買春に対する法的アプローチの中で、世界史上、性産業に対して有効に働いた唯一のものである 。

 それとは対照的に、売買春が合法化されれば、オーストラリアの優れた研究調査の中で実証されているように、人身取引は天井知らずに増大することになる 。それは経済的に見て当然である。いったん女性と子供が合法的に組み込まれると、公然と営業する性産業から上がる儲けは天文学的なものになる。違法の売買春も合法化のもとで爆発的に増大したが、このこともオーストラリアの事例から明らかである 。合法的な売春店が、買春男の望まない保護措置〔コンドームの着用など〕を求めると、彼らは隣の違法店に行って、より多くの金を払うのだ 。このことは、ただでさえより危険な状況にある(しばしば非合法の)移民女性にとって生活をなおさら危険なものにする 。

 合法化――性産業が当然の理由からして主要目標としているもの――は失敗した実験である 。ドイツ政府は、同国での性産業の合法化はそれが約束していた恩恵を与えることができなかったと結論づけた。すなわち、組織犯罪集団の関与を減らすことも、人身取引を減らすことも、売買春をより透明でより地下に潜らないようにすることも、そこからより脱け出しやすくすることも、より健全でより安全にすることもできなかった、と 。それは、かつて存在していた法執行機関をことごとく蝕み、そのため、売買春には何の問題もないとする認識を社会と大衆文化に植えつけた。2008年に売買春に関する法〔2003年に売買春を非犯罪化した売春改革法〕の調査を行なったニュージーランド政府の委員会は、同様のことを見出した。売買春における女性に対する暴力と、性産業を取り巻く社会的スティグマは、非犯罪化にもかかわらず継続している、と 。

 合法化がうまく機能しない一つの理由は、そこに関わる明白な経済的インセンティブを措いたとしても、以下のことにある。売買春の中にいえる女性のほとんどは、これが今後の人生のあいだずっと続くのだとは思っていないし思いたくないのだが、〔売買春が合法化されている国で〕合法的な地位を得るためには、実名を用いなければならず、その名前を登録し、書類に記録として残さなければならない。合法的な売春婦になるということは、売買春が自分の公的なライフストーリーの一部になるという決意をすることを意味する。被買春女性のほとんどは、たとえ今はそれをしなければならないとしても、さまざまな夢を持っている 。したがって、いつか売買春から脱け出すことができるように、合法的売買春のもとでもなお繁栄している非合法の売買春に依存し、それゆえ売買春の合法化が与えると称する何らかの恩恵がたとえあるとしても、そのほとんどをこうむらないのである。

  結論

 以上述べたあらゆるエビデンスからして、この問題をめぐって法と政策との構造的枠を設定している種々の道徳的区別――私が出発点にしたもの――が、イデオロギー的な区別であって、混乱しているとともに混乱させるものであり、悪辣で剥き出しの搾取であるものを社会的により受け入れやすいものにし、果てしない論争を喚起するものでしかないということである。売買春の中にいるほとんどの成人女性は、最初少女であった時に買春され、そのまま抜け出せないでいるだけなのだ。彼女らが年を取って引退しても、階級、性別、時に人種などのさまざまな脆弱性はそのまま維持されるし、あるいはしばしば犯罪歴がくっつき、買春されてきたことによる心理的荒廃をほとんど常にこうむっている。人身取引業者やピンプは、最も無力な状態にある少女を、したがって最も市場価値がある時期の女性をつかまえることに利益を有している。その後、月日が経つにつれて、彼女らがこうむる搾取はますます彼女ら自身の責任へと転嫁される。屋内で使用されている場合、被買春女性は産業的にピンプや買春男にとって利用しやすくなる一方で、他のほとんどすべての者にとっては不可視になる。合法的なものも非合法的なものも同じ被害と弊害を与えるが、その多くは包括的合法化によっていっそう悪化する。売買春の核心に存在するのは、さまざまな形態と度合いの強制力である。このことは、真の選択肢を持った自由な個人であれば自発的に選択するだろうなどと信じるのをはなはだ困難にする。

 おそらく、売買春の最も深刻な侵害性――種々の不平等と具体的な諸被害のうちにその物質的基盤を有したそれ――は、その中にいかなる尊厳も存在しないことである 。ここに「エージェンシー(主体性)」を帰属させること――あたかもそれが自由を意味するかのように――は、あの失われた尊厳をつかもうとする絶望的試みであるのかもしれないが、それと同時に、搾取されている側がけっして失わない尊厳が性産業の側に乗っ取られることでもある。

 被買春女性の諸権利を推進する適切な法ないし政策は、3つのポイントを有している。1、売買春の中で買われている側の人々を非犯罪化し支援すること、2、買い手を強力に犯罪化すること 、3、第三者の利得者を犯罪化すること、である。平等を推進するためには、平等の侵害者たちを締め出し、世界を侵害された側の人々に開かれたものにしなければならない。これこそまさに彼女らが求めていることだ。売買春の中の女性たちのうち、私がこれまで会った中で、自分の子どもたちに同じ人生を送らせたいと望んだ者は1人もいなかった。このことは、彼女が売買春を選んだのではなく売買春が彼女を選んだということ以外の何を意味するだろうか?

 売買春の中の女性たちには拒否されてきた選択肢を持っている一部の人々には、被買春女性たちにも売春以外の人生があるということについて想像することができないようだ。私が知っている人々――同僚たち、友人たち、私がいっしょに活動し支援している人々〔サバイバー〕――にはそんな困難はない。これらの人々は真の仕事、真の愛、尊厳、希望を理解している。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

キャサリン・マッキノン「人身取引、売買春、不平等」」への1件のフィードバック

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