性売買をめぐる嘘を暴く――書評:ポムナル『道一つ越えたら崖っぷち』

 この分厚い著作、韓国の性売買サバイバーであるポムナル(「春の日」という意味だそうだ)さんの『道一つ越えたら崖っぷち――性売買という搾取と暴力から生きのびた性売買経験当事者の手記』(アジュマブックス、2022年)を読みながら、何度、怒りに震えて読む手が止まったことだろう。

 性産業の業者たち(オーナーやマダム)が若い女性を騙して性産業に引き込み、そこで借金まみれにして脱出できないようにし、徹底して搾取しつづける実態が、それこそ、これでもか、これでもかと描かれ続ける。ポムナルさんはそれを出口の見えないトンネルにたとえている。多くの人がそういう境遇に陥っているのは、特別な落ち度がその人たちにあったからではなく、誰もが一歩足を滑らせたら(そしてその要因はそこら中にあふれている)、そのまま崖に転落しかねない社会構造があるからである。本書の題名はそのことを言おうとしている。

 ポムナルさんの場合、それは貧困、父親の飲酒と暴力、母親からの疎外、そして、2人の妹を大学にやるために仕送りをしなければならないという事情だった。こうしてアガシ(韓国の風俗嬢はそう呼ばれる)の一人となった彼女は、店から店へ、性産業のある形態から別の形態へと、まるでピンボール台のボールのように、あっちに飛ばされ、こっちに突かれて、性産業というゲーム台の上をぐるぐる回り続ける。警察も社会もアガシにはまったく無関心で、彼女らがどんなひどい状況に陥っても助けは来ない。女性たちの側も助けを求めるという発想さえやがて浮かばなくなり、ただ自力で何とか生き抜こうとする。それは文字通り、暴力と搾取に囲まれたサバイバルゲームとなる。その間に稼いだお金のほとんどは本人にではなく、オーナーやマダムたちの懐に入る。増えるのは貯金ではなく、借金だ。

 性産業に入れば短期間で大金を稼げるという物語(セックスワーク派が大好きな物語)が、いかに真っ赤な嘘かがわかる。彼女はこう書いている。

「オーナーたちは私に、少しの間だけぎゅっと目をつぶっていれば、家も買えて車も買えると言って手なづけた。……家も買えて車も買えるというその言葉に、私は初めは大変だろうが、少しだけ我慢すれば家族と一緒にいい暮らしができるという希望を抱いていた。しかし、どれだけ働いても借金は増え続け、身体は壊れていった。そして彼らは責任を取らなかった。オーナーは自分の言うことさえよく聞けば金をたくさん稼げると言ったが、どのようにしたら家も車も買えるのか、金をどうすれば稼げるのか、私は今もわからない。」(317~318頁)

 日本が植民地時代に朝鮮半島に性産業とともに持ち込んだ「前借り」というシステムは、韓国の女性たちを塗炭の苦しみに叩き突き落す。前借り金には1ヵ月で1割から3割もの利子がつく。居住費や生活費のすべても、アガシが稼いだお金から差し引かれ、足りなければ借金となる。病気で休めば、その休んだ分がすべて罰金となる。客を多くとるためには、高いドレスを、風俗店が指定する店で(市価よりはるかに高い値段で)買わなければならないが、それもすべて借金となる。客が飲んだお酒の代金を踏み倒したら、それもすべてアガシの負担となる。一人のアガシが逃げ出せば、残った他のアガシが連帯責任を取らされ、彼女の借金も共同で負わされる。もちろん、逃げ出して見つかれば、半殺しの目にあう。空港職員でさえ風俗店の手先で、逃げたアガシがいないかどうか目を光らせている。稼いでも稼いでも、すべて借金の返済に消えていく。

 大人たちが、若い人々を騙して、性売買の終わりのない地獄へと突き落とし、そこから金を搾り取り続けるというこの構図は、ポムナルさんの場合の特殊なパターンではなく、性売買の多くに共通する特徴だ。「そして彼らは責任を取らなかった」。そう、彼らは責任を取らないし、これからも取らないだろう。セックスワーク論を無責任に唱えている連中もこの構造に加担しているのである。

 最悪なのは性産業のオーナーたちだけではない。彼らと結託して、性売買当事者を搾取し、しばしば暴力を振るう買春者たちも同じだ。ポムナルさんはこう語る、彼らはみな同じだと。

「性売買の店で働いていた20年あまりの間に出会った客たちの特徴は、年齢、学歴、宗教、結婚しているかどうか、経済的能力、社会的地位、職業、政治的指向とはなんの関係もなかった。彼らは金で私の身体を買ったと考えて、自分のほしいままにし、罪の意識をまったく感じていなかった。男たちの性欲はどうにかして解消しなければいけないと考え、私の身体をその手段にした。彼らにとって私という「人間」は排泄口にすぎなかった。自分たちの言うことをきかなかったり、醜悪なセックスを拒んだりしたら、暴力を振りかざすのは日常茶飯事だった。」(323頁)

 売買春の経験を経たサバイバーがみな一様に語るのは、この客たちの同一性だ。国も時代も異なるのに、彼らは驚くほど似ている。暴力的で、醜悪で、けっして女性を対等な人間とみなさない。もし対等な人間とみなしていたら、どうして金という権力を用いて女性を自己の性欲の道具にしようと思うだろうか。

 さらに彼女はこう語る――「韓国では性売買の店に通う男たちがあまりにも多いせいで、性を買わない男を特別な存在のように捉える雰囲気さえある。しかし、性を買わないことは人間として当然の行動だ。今は私が見てきた性を買う男たちの醜悪な姿を一つ残らず告発し、世の中に示すことが私の目標である」(330頁)。

 ここで言われていることは、日本にもそのまま当てはまる。何しろ日本が制度としての性売買を朝鮮半島に持ち込んだのであり、今なお韓国に残る性売買集結地のほとんどは日本の植民地時代に日本が作った遊郭街を受け継いだものなのだ。日本軍による「慰安婦」制度の告発に熱心な左翼男性学者の多くは、なぜか現代の売買春にほとんど無関心である。だが実際には両者は連続しており、戦時か平時かの違いがあるだけだ。現代の性売買をなくさないかぎり、戦時「慰安婦」制度は本当の意味では終わらない。「性を買わないことは人間として当然の行動」なのだという規範を韓国でも日本でも、そして全世界で確立しなければならない。

 ポムナルさんは最終的に女性人権支援センターの相談員の力を借りて、完全に性売買から脱け出し、そして自ら元当事者として相談員になる。その過程もけっして平坦な道のりではなかった。自分と同じつらい経験を経てきた被害者の相談に耳を傾けることは、トラウマをよみがえらせ、フラッシュバックになりかねないからだ。

 その中の一人の少女は、性売買のせいで重い病気にかかり、相談に来た時にはすでに手遅れだった。彼女は数ヵ月後に亡くなるが、病室でやせ細った体を横たえながらポムナルさんたちが優しく語りかける言葉に涙を流し、「今が一番幸せです」と語る――「会いたい人はいるかと尋ねると、彼女はいないと断固として答えた。そして絶対に許せない人ならいると言った」(384頁)。

 被害当事者としての自分と相談員としての自分とのはざまで苦しんでいたポムナルさんはやがて、韓国でも盛り上がったMeToo運動の中で、他の性売買被害当事者の文章を代読するという体裁で、自分自身の被害経験を初めて不特定多数の人前で語る。

「広場で私は震える唇で私が経験した暴力について話した。目頭が熱くなったりもしたが、最後まで落ち着いて発言を読み切った。……私の胸は複雑な感情でいっぱいになっていた。集会に来ていた多くの女性たちが私に拍手をしてくれたので、はっと現実に帰った。一つの段階を超えた気分だった。私が経験してきた性暴力、セクシュアルハラスメント、デートDVは性売買へとつながっていった。いや、その暴力は実は同じものであった。集会を終え、帰ってきたその日の夜は悪夢にさいなまれなかった」(400頁)。

 そして彼女は、性売買被害当事者の会である「ムンチ」の一員として活動するようになり、現在に至っている。

 性売買被害当事者(サバイバー)による長編手記として有名なのは、アイルランドのサバイバーであるレイチェル・モランさんが書いて世界的ベストセラーとなった『ペイド・フォー』、そして最近ではドイツのサバイバーであるフシュケ・マウさんが書いた『人間性を奪われて――なぜ売買春を廃絶しなければならないのか』があるが、本書はそれらと肩を並べるものだ。

 本書の第1部「長いトンネル」は、性売買というトンネルの中をさまよっていた時期を描いており、第2部「私を再び探す時間」は、性売買から抜け出して、自分自身を取り戻す過程を描いている。400頁を超える大著だが、本体価格が1800円(税込みで1980円)という信じがたいほど安い値段になっている。この本をできるだけ多くの人に読んでもらいたいという出版社の意気込みが伝わる。古橋綾さんの訳も素晴らしく、訳注も充実していて、韓国の性売買のシステムに関する知識があまりない人でもよくわかるようになっている。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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