ベーベル『婦人論』著者序文

【解説】今日、8月13日は『婦人論』の著者として名高いドイツの社会主義者アウグスト・ベーベルの亡くなった日です。そのことを記念して、今日から何回かに分けて、ベーベルとその『婦人論』に関わる文献を紹介します。まず最初に紹介するのは、『婦人論』(原題『女性と社会主義』)に対する著者自身の序文です。同書はその初版の出版以来、何度も改訂、加筆、修正がなされていますが、ここに紹介するのは、ベーベル生前に最後の大幅増補がなされた第50版における著者序文です。

この序文において、ベーベルは、たとえブルジョア婦人運動の要求する女性の市民的平等が達成されたとしてもなお存在する女性隷属の形態として、「売買春」を挙げています。ベーベルはこの『婦人論』において「売買春」について特別の一章を設けて、それを徹底的に批判するとともに、実践においても、当時におけるヨーロッパの指導的アボリショニスト(売買春廃絶主義者)であったジョセフィン・バトラーの運動に積極的に協力しました。

ジョセフィン・バトラーはその自伝の中で、売買春廃絶の訴えは有産階級の間ではほとんど無視されたが、労働者からは熱烈に受け入れられたと感慨深く振り返っていますが、その土壌を作ったのは他でもないベーベルでした。

ひるがえって今日、ポストモダニズム、ポスト構造主義の悪影響を受けた現代の「マルクス主義者」たちは、愚かにも「セックスワーク」論を受け入れ、売買春の合法化・自由化を支持していますが、それは、マルクス、エンゲルス、ベーベル以来のマルクス主義のアボリショニスト的伝統を完全に裏切るものです。

ベーベル『婦人論』著者序文

 われわれは、日々進行する大きな社会変革の時代に生きている。社会のあらゆる階層において、ますます強まる人心の動揺と不安が顕著になっており、それは抜本的な変革を切実に求めている。誰もが、自分の立つ地面が揺らいでいるのを感じている。多くの問題が提起され、ますます広範囲な関心を呼び、その解決策をめぐって賛否両論が闘わされている。こうした問題の中でもとりわけ重要で、ますます注目を集めているのが、婦人問題である。

 これは、女性がわれわれの社会組織の中でどのような地位を占めるべきか、また、女性が人間社会において完全かつ平等な、そして可能なかぎり有益な一員となるために、いかにしてその力と能力とをあらゆる面で伸ばすことができるかという問題である。われわれの立場からすれば、この問題は、抑圧、搾取、困窮、悲惨に代わって、個人と社会の身体的・社会的な健全さが実現されるために、人間社会がどのような形態と組織を採るべきかという問題と密接に結びついている。したがって、われわれにとって婦人問題とは、現在、すべての思索する者たちが関心を寄せ、すべての精神を奮い立たせている全般的な社会問題の一側面に他ならない。それゆえ、この問題は、社会的対立の解消と、この対立から生じる害悪を排除することによってのみ、最終的な解決を見出すことができる。

 とはいえ、婦人問題については特別に扱う必要がある。第一に、婦人の地位が過去どうであったか、現在どうであるか、そして将来どうなるかという問題は、少なくともヨーロッパにおいては、女性という性別が人口の過半を占めているがゆえに、社会の過半数に関わる問題だからだ。また、数千年にわたって婦人の社会的地位が経てきた変遷に関する人々の認識は、現実とはかけ離れているため、この点についての啓蒙が不可欠となっている。何といっても、ますます勢いを増しているこの運動に対する偏見──それはさまざまな階層に見られ、とりわけ女性たち自身の間にも見られる──の多くは、女性の状況に対する無知と理解不足に根ざしているからだ。多くの者は、婦人問題など存在しない、なぜなら、女性がこれまで占めてきた、そして将来も占めるべき立場は、妻や母としてのそれであって、家庭生活に限定される「天職」によって定まっているからだと主張する。家庭という四つの壁の外で、あるいは家事の義務と直接関係のないところで何が起ころうとも、女性には関係がないというのだ。

 したがって、婦人問題においても、労働者階級の社会的地位が主要な役割を果たす全般的な社会問題と同様に、立場を異にする種々の陣営が対立している。現状をそのまま維持したいと考えている者たちは、出来合いの答えをすでに用意しており、女性をその「天職」に帰属させることで、この問題を片づけたと信じている。彼らは、何百万人もの女性たちが、後述する理由により、自分たちに割り当てられた「天職」であるはずの妻、出産・子育てをする者としての役割を果たすことさえできないこと、また、他の何百万人もの女性たちが、結婚が彼女たちにとって重荷や奴隷状態となり、悲惨と困窮の中で人生を耐え忍ぶことを余儀なくされているため、この「天職」を大部分果たせないでいることにも気づいていない。もちろん、これらの「賢者」たちは、何百万人もの女性たちが、あらゆる職業において、しばしば極めて不自然な形で、そして自分の力の限界をはるかに超えて、かろうじて生活をするために身を粉にして働かざるをえないという事実にも、同様に無関心だ。彼らは、プロレタリアートの悲惨さから目を背けているのと同様に、この不都合な事実からも目を背け、耳を塞いでいる。「昔からそうだった」し、「これからも永遠にそうあり続ける」と言って、自分自身や他人を慰めている。女性が、男性と同様に、現代の文化的成果を等しく享受し、自らの境遇を緩和・改善するためにそれを活用し、すべての精神的・身体的能力を伸ばし、それを自らの利益のために活用する権利を有しているという事実については、彼らはいっさい耳を貸そうとしない。さらに、女性が身体的・精神的に自立するためには経済的にも自立しなければならず、そうして初めて異性の好意や善意に頼らなくてもよくなるのだとわれわれが説くと、彼らの忍耐は限界に達し、怒り心頭に発し、「時代の狂気」 や「いかれた解放運動」に対する激しい非難の嵐が巻き起こる。

 彼らは偏見という狭い檻から抜け出せない凡庸な人々であり、男女を問わない。それは、暗闇が支配する場所ならどこにでもいるフクロウのような連中であり、自分たちが心地よく感じる闇に一筋の光が差し込むやいなや、恐怖の叫び声を上げるのだ。

 しかし、この運動に反対する者たちの別のグループは、明白な事実から目を背けることはできない。彼らは、文化の発展全体と比較して、これほど多くの女性が現在ほど不満足な状況に置かれていた時代はかつてなかったことを認めている。彼らは、したがって、女性が独身で自分自身に頼らざるをえないかぎりは、その状況をいかに改善すべきかについて検討の必要があることを認めている。だが、結婚という安住の地へとたどり着いた女性たちについては、この点に関して社会的な問題は解決されたように考えている。

 したがって、このグループは、未婚女性が男性と競争できるよう、その体力や能力に適した労働分野への道が開かれることを求めている。さらに一歩踏み込んで、競争を低位の職種や職業分野に限定せず、より高度な職業や芸術・科学の分野にも拡大すべきだと主張する者もいる。彼らは、すべての高等教育機関、とりわけ大学への女性の入学を認めるよう求めている。さらに、特に米国において女性が達成した成果を根拠に、公務員(郵便、電信、鉄道)への採用を認めるべきだと主張する声もある。また、女性にも政治的権利を付与すべきだと求める声もあちこちから上がっている。女性は男性と同様に人間であり市民である。これまで男性のみが行なってきた行政や立法は、男性が自らの特権を自らの利益のためにのみ濫用し、あらゆる面で女性を支配してきたことを証明しており、これは阻止されなければならないと言う。

 ここで簡潔に述べたこうした取り組みの注目すべき点は、それらが今日の社会秩序の枠組みを超えていないことだ。それによって、女性の状況全般において、本質的かつ抜本的な成果が達成されたかどうかという問題は提起されない。ブルジョア的、すなわち資本主義的な社会秩序にもとづいた男女の市民的平等こそが、問題の最終的な解決であるとみなされている。しかし彼らは、女性が商工業の職業に支障なく就くことに関しては、実際にはこの目標がすでに達成されており、支配階級も自らの利益のためにこれを強力に後押ししているという事実を認識していないか、あるいは見過ごしている。だが、現在の諸関係を前提にすれば、女性があらゆる商工業活動に参入することは、労働者間の競争をますます激化させる結果をもたらさざるをえず、その最終的な帰結は、賃金や給与という形を問わず、男女労働者の所得を押し下げることである。

 このような解決策が不十分なものであるのは明らかだ。女性の完全な市民的平等は、今日の社会秩序の土台の上でこうした女性の取り組みに好意的に接する男性たちにとっての最終目標であるだけでなく、この運動に積極的に関わるブルジョア婦人たちによってもそのように認識されている。したがって、彼女たちや志を同じくする男性たちはその要求において、男性社会の他の部分──すなわち、その俗物的な偏狭さゆえに、あるいは、婦人の高等教育や高給の公職への就職が問題となる場合には、下劣な私利私欲や競争への恐れゆえに、婦人運動に敵対的な態度をとる人々──とは対立しているが、両者の間には労働者階級と資本家階級の間のような階級対立は存在しない。

 たとえブルジョア的婦人運動が男性との平等を求めるそのすべての要求を実現したとしても、それによって、無数の女性たちにとって今日の結婚がそうであるような「奴隷制」も、売買春も、そして夫に対する大多数の妻の物質的従属も、解消されることはないだろう。大多数の女性にとって、社会的に恵まれた階層に属する数千人の同性の仲間が、高等教育や医療部門、あるいは何らかの学術的・官吏的地位で成功を収めることにあまり関心はない。それによって、女性の全体的な状況が変わるわけではないからだ。

 女性という性別の大部分は二重に苦しんでいる。第一に、男性社会に対する社会的・制度的な従属である。これは、法律上および権利上の形式的平等によって緩和されるものの、解消されるわけではない。第二に経済的な従属であり、女性全般、とりわけプロレタリア女性は、プロレタリア男性と同様の状況に置かれている。

 このことから、社会的地位の違いなしに、すべての女性は、われわれの文化的発展の過程において男性社会に支配され、不利益を被ってきた性別として、既存の国家・社会秩序の法律や制度の変更を通じて、この状態を可能なかぎり解消することに利害関係を持っている。しかし、女性の圧倒的多数は、プロレタリア女性が最も苦しんでいる賃金奴隷制と、われわれの所有・所得関係と密接に結びついている性奴隷制の両方を排除するために、既存の国家・社会秩序を根本から再構築することにいっそう強い利害関係を有している。

 ブルジョア婦人運動に属する女性たちは、このような抜本的な変革の必要性を理解していない。自分たちの比較的恵まれた立場に影響され、彼女たちは、より進歩的なプロレタリア婦人運動を、危険で容認できない動きとみなし、これと闘わなければならないと考えている。資本家階級と労働者階級の間に横たわり、状況の激化に伴いますます鋭く発展する階級対立は、したがって婦人運動の内部にも存在する。

 とはいえ、対立しあう姉妹たちは、階級闘争によって分断された男性社会よりもはるかに多くの共通点を持っており、別々の道を歩みつつも、力を合わせて闘いを繰り広げることができる。これは、現在の国家・社会秩序のもとで、男女の平等が問われるあらゆる分野に当てはまる。すなわち、女性の力と能力が及ぶかぎりあらゆる分野への参入、そして男性との完全な市民権的・政治的平等の実現である。これらは極めて重要なものであり、後述するように、非常に広範にわたる分野である。さらに、プロレタリア女性は、プロレタリア男性たちと手を携えて、働く女性を肉体的・精神的な退廃から守り、母親および子どもの養育者としての健康と体力を維持するためのあらゆる措置や制度を求めて闘うことに、特別な関心を持っている。さらに、プロレタリア女性は、適切な社会的制度を通じて、男女にとって完全な経済的・精神的自立を可能にするために、同じ階級に属し同じ運命を分かち合う男性たちと共に社会を根本から変革するための闘争に取り組まなければならない。

 つまり、単に既存の国家・社会秩序の枠組みの中で男女の平等を実現すること――これがブルジョア婦人運動の目標である――にとどまらず、人間を人間に、ひいては一方の性別を他方の性別に従属させるあらゆる障壁を取り除かなければならない。この婦人問題の解決は、社会問題の解決と一致する。したがって、婦人問題の解決を全面的に追求する者は、社会問題の解決を全人類のための文化問題として掲げている者たち、すなわち社会主義者たちと手を携えなければならない。

 あらゆる政党の中で、社会民主党は唯一、煽動上の理由からではなく、その必要性にもとづいて女性の完全な平等、あらゆる従属と抑圧からの解放を綱領に盛り込んでいる政党である。人類の解放は、男女の社会的自立と平等なしにはありえない

 ここに示した基本見解については、すべての社会主義者がわれわれと意見を同じくするはずだ。しかし、われわれが最終目標をどのように実現すべきか、すなわち、目指すべき万人の自立と平等を確立するための措置や個々の制度がどのようなものであるべきか、その方法と手法についてはそうは言えない。現実という基盤を離れ、未来像の描写に踏み込むやいなや、推測の余地は広大になる。意見の対立は、何がありえて何がありえないのかというから始まる。したがって、この点に関して本書で述べられていることは、あくまで著者の個人的な見解とみなされるべきであり、したがって、いかなる批判も著者個人に対してのみ向けられるべきである。述べられた内容に対する責任は、著者一人にある。

 客観的かつ誠実な批判は大いに歓迎するが、本書の内容を事実と異なる形で描写したり、虚偽の推測に基づいたりする批判については、無視させてもらう。なお、以下の論述においては、事実の検証の結果から出されるべきあらゆる結論が導き出されている。偏見を持たないことこそが真実を認識するための第一条件であり、あるがままとあるべきことについて遠慮なく述べることで初めて、目標に到達することができるのである。

投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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