シボーン
Nordic Model Now!, 2020年4月11日
【解説】(Nordic Model Now!のまえがき)「シボーン」さんは、ニュージーランドとオーストラリアでの合法的な性産業に従事してした経験について、「シェア・ユア・ストーリー」のページ(女性が自分の言葉で自分の体験談を語る場を提供するページ)から当サイトに送ってくれました。
私は18歳から30歳までニュージーランドとオーストラリアで売春をしていた。
私は中流階級の家庭で育ったが、父は怒りの問題を抱えたミソジニストで、一人娘だった私に八つ当たりをした。言葉で罵倒したり、身体的に暴力を振るったりした。また、何ヶ月も私を無視したり、話しかけても不機嫌そうに応じたりした。母は見て見ぬふりをし、逆に私が「気難しい問題児」だと家族に話していて、家族はみなそれを信じた。
17歳の時、私は生活保護を申請した。それは、家庭環境の有毒さと虐待から逃れるために実家から引っ越すことを意味するものだった。実家の雰囲気は私の自尊心を侵害していると感じていたし、それを克服するのはとうてい不可能だと思えたからだ。当時、私は有毒な実家から離れることは、健全な未来を手に入れるためにしなければならないことだと感じていた。
しかし、今にして思えば、有害な環境にもかかわらず、実家に残っていれば、売春に手を出すことはなかったと思う。このことを毎日考え、後悔しているが、当時私はまだ17歳だったし他のすべを知らなかったので、この選択をした自分を許そうと思う。
こうして17歳の時に家を出た。まだ高校の最終学年だったが、そのまま学校に通い続け、良い成績で卒業した。卒業後すぐに地元のチャリティーショップでアルバイトをして、寄付された品々の仕分けをした。
母は私に、叔父さん(かつては私のことを無条件に褒めたたえてくれていたが、その後、私が非行少女になったと信じ込んだ)が私に失望していると知らせてきた。私が自分の人生をより良いものにする代わりに、チャリティーショップのような低賃金の仕事をしていることにがっかりしているというのだ。私に対する叔父の拒絶と、私が負け犬だという彼の信念は私を打ちのめし、自分は無価値な人間だと確信した。
18歳の時、チャリティーショップの昼休みに地元の新聞を読んでいたら、「女の子!女の子!女の子!現金を稼げ!」と書いてあったのを見た。性風俗の一種であることは何となくわかったが、何をするのかよくわかっていなかったように思う。私は広告に出ていた電話番号にかけた
電話の向こうの女性は「あなたは美人?」と言った。「いいえ」と私。「男の子は好き?」と彼女。「はい」と私。売春店での面接で私は初めてハイヒールを履いた。
最初のシフトが終わった時、財布に入っていた札束に興奮してドキドキしたのを覚えている。食べ物は、子供の頃の嫌な感情を麻痺させるために口に押し込むものだったが、今ではどうだ。世界中のすべてのお金をつぎ込んで、自分の好きな食べ物を何でも買いたいと思った! それは爽快だった。しかし今思えば、地元紙の広告を見ていなければ、売春の仕事に就くことはなかっただろう。
私は、お金が手に入る「手軽さ」にハマってしまった。その当時のひどくトラウマ的な記憶というのはないが、いま振り返ってみると、搾取されていたことがよくわかる。自分の父親より年上の客は、すべての女の子は生でフェラをするんだと私に嘘を言って信じ込ませた(だから私はそうした)。売春店で私に課せられた800ドル相当の「罰金」(理由は不明)を、店をやめる前に払わなければならなかった(そして私は払った!)。デリヘルの運転手として働いていた中年男が、私を自分のアパートに連れて帰り、何時間もそこにいさせ、デリヘルの一環だと思わせて私とセックスしたが、彼はお金を払ってくれなかった。仕事がいやでいやでしょうがなくなったのは20代半ばになってからだ。
売春店に行く途中で泣いてしまうこともあったが、その頃には仕事に追い詰められているような気がして、やめる前にお金を使って何か人生をやりがいのあるものにしなければならないと感じていた。
大学に入って学位を取ることにしたが、「お前はこんなに長くやっていたんだから、あと2年ぐらい何だ」と自分に言い聞かせていたのを覚えている。いま思えば、大学に行かなくてもよかったのに、どうしてさっさと売春をやめなかったんだろうと思う。説明が難しい。でも、売春をやめるのは非常に難しいと感じていた。
最悪だったのは間違いなく買春客たちの心理「ゲーム」だった。彼らは私の体を性的満足のために使うだけでは十分でなく、私は売春婦だから無価値なのだということを私に思い知らせることに全力を尽くした(そしてそれは彼らの楽しみとっても必要なことだった)。
彼らはペニスや指を私のアソコに入れると同時に、次のようなことを言ってくる。「お仕事楽しんでる?」「自分の人生なのに何やってるの?」「両親は君が何をしているか知っているの?」「なぜ(ちゃんとした)仕事をしないんだ!!」。彼らは私が売春を選んだことで利益を得ながら、それと同時に、売春をしている私をクズだと言ってくるので、私はいつも正気の沙汰ではないと思っていた。
何年もの間、こうした会話は私の心を削り取り、その記憶が今日に至るまで私の中で反響している。60代の男性が(私の体を使ってオーガズムを得た後)、両手で私の頬を覆って、数年以内に結婚相手を見つける必要がある、それが君の人生にとって最善だからだと言ってきた。
私がそれに腹を立てると(その行為に認知的不協和と偽善を感じたからだ。この男は、私がかたわらで全裸で横たわっているときに、こういう意見を言うことに自己満足を感じていたのだ)、彼は半笑いの素っ頓狂な声で叫んだ、「えっ?! だって本当のことだろ!」。この小さな「激励」の後、彼が2回目のセックスをしようとしたとき、私は拒否した。この男は店に文句を言った。
他の買春客は、私が学生かどうかをほとんど偏執なまでに知りたがったので、一時的にこの仕事をしているだけだと安心させる必要があった。そう言ってやると、彼らは、本当はこんなことをしたくないと思っている女性とセックスすることを正当化できると感じるようだった。
時に私は正直になって、「いいえ、私はこの仕事を楽しんでなんかいない。私はただお金のためにそれをやっている」と言いたくなった。もし彼らが本当に気にしているのなら、彼らが今していることをやめる機会を与えてやるためにだ。
驚くべきことではないが、買春客の誰一人として、これを聞いて、あるいは彼らが乱暴に私のアソコに触れているときの私のゆがんだ表情を見て、自分のペニスを私の中に入れるのをやめた者は一人もいなかったし、彼らが当然そうする権利があると感じていたオーガズムに達するのをやめた者はいなかった。このことからして、多くの買春客にとって、自分たちの購入する少女ないし女性に精神的な不快感を引き起こすことは、この経験を真に楽しむのに必要なことなのだと私は思っている。
これは、広く信じられている次のような観念と鋭い対照をなしている。すなわち、買春客はごく普通の立派な男たちであり、ちょうどセックスに対する自らの生物学的欲求を満たす対象を探しているだけで、誰もこの過程で傷ついてはいないという観念だ。
私にとって、買春で私を使用しながら、意図的かつ意識的に私の頭を混乱させようとする買春客のこのような試みは、売春で何度も何度も受けた肉体的・性的暴行よりもずっと大きな影響を与えるものだった。10年も前のことでも、私の価値や容姿、性格などについて、露骨に侮辱されたことが今でも思い返される。17歳の時に自分は自尊心が低いと思っていたが、売買春がそれを完全に破壊したのだ。
私はついに売買春から脱出したと言いたいところだが、今は売春店で受付の仕事をしているだけだ。鬱病のために先延ばしにしていた学位の取得もまだ終わっていない。
売春をしなくて済むのはありがたいことだが、受付の仕事にはとても葛藤がある。私は今でも、買春客の「俺には女を買う権利がある」という態度、女性の客体化(モノ化)、人種差別、ミソジニーに接しているが、それを気にしないよう言われている(そして、仕事を失うことにならないようそうしなければならないと感じている。あるいはもっと悪いことに、買春客にあえて挑戦的な態度を取ることで復讐の対象にならないようにしなければならないと感じている)。
売春をやめさえすればトラウマを癒すことができると思っていたが、受付嬢である私は今でも買春客からの嫌がらせの対象になっている(私の体についての望まぬ性的発言、自分たちのフェチについて詳しく話すこと、不快感を与えることを意図した粗野な言葉遣い、など)。お金を払ってセックスをする男たちは、性的な満足感を求めるのと同じくらい、売買春の中の女性たち(受付嬢を含む)に精神的な不快感を与えたいと思っているのだと私は確信している。
表面的には簡単そうに見えるし、別の仕事に就いて業界から遠く離れればいいだけなので、自分が嫌になる。なぜ自分がそうできないのかわからない。
私はこの業界が合法である国ないし都市に住んで、仕事をしている。人々は、それがちゃんと管理されていると思っている。しかし、それは理想であって現実ではない。現実には、セックスを買う男たちは、ほとんどの場合、自分の買う女性に敬意を払わず、強姦や暴行をしても、その報いを受けることはない(だからこそ、彼らはそもそも売春婦を強姦することができると思っているのだ)。
私は、売春の合法化は、単にその社会の男たちのミソジニー的な態度や行動を強化し助長しているだけだと思う。
それが合法的な産業であり、男たちは逮捕される心配がないので、これらの男性は自由で安全に売春店に入り、そこで働く女性を見下したり、あざけったり、笑ったりすることを楽しんでいる。あるいはもっと悪いこともある。彼らは予約を取り、ワーカーをレイプしたり暴行したりする。NGを設定するワーカーへの買春客の反応は、ほとんどいつも、「えっ、信じられない」という態度を見せるか、あるいは怒りを露わにする。
それが合法的な産業であることに起因する自信ゆえに、これらの男たちは、セックスに金を払うことを他のどのサービスや商品とも同じだとみなしており、多くの場合、こちら側が「いや、私は自分の体に行なわれるこれこれのことには同意しない」という境界、NGを設定すると、それを客への悪いサービスだと思うし、それどころか、客のお金を「盗む」ことだとさえ本気で考えるのだ。
ワーカーの側が設定する境界を軽視しているにもかかわらず、これらの買春客はセックスワーカーをレイプした行為に対して、受付でロイヤルカードで料金を支払い、そして、ワーカーをレイプした後に、優しく手を振って送りだされるのだ、「ありがとうピーター! 次回もよろしくね!」。
そして、ほとんどの場合、彼らは次回も歓迎される。前回、同意なしにコンドームを外したことを誰もが知っているが、それでも歓迎されるのだ。
これらの男たちは、自分の妻や子供のもとへ、自分の仕事へ、自分の権力や影響力のある地位へ、自分の社会的な領域へと戻っていく。報いを受けることなく女性をモノ扱いし暴行する機会と自由が彼らにはあり、そのことが、彼らの他の人間関係、他の人間を見る方法、そして私たちが暮らす世界で行動を選択する方法にも影響を及ぼす可能性があることを、どうして否定できるだろうか?
労働者の人権は合法化された売春においても守られていない(セックスワーク派のコミュニティが必死になってそう信じさせようとしているにもかかわらず)。もし本当に守られているとしたら、買い手の大多数は店への出入りを禁じられ、警察が絶えず呼ばれることになるだろう。売春を合法化することは進歩的ではないし、それが存在する社会では、すべての人がそれによって傷つけられるのだ。
私はいつかニュージーランドやオーストラリアで北欧モデルが見られるようになることを願っている。そして、買春者たちが、自分たちのミソジニーと特権、共感の欠如を平然と開示したこと、それにもとづく行動を進んで取る選択をしたことの報いを受けることを望む。
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