セイラ・スマイルズ「お金を払って行なわれるレイプの世界を生きて」

【解説】ここに紹介するのは、1988年、14歳のホームレスだった頃にニュージーランドで売春を始め、最終的に30代後半の2010年に離脱したセイラ(サラ)・スマイルズさんの証言です。つまり彼女は2003年に完全に非犯罪化される前と後の両方で、ニュージーランドの性産業での生活を経験したことになります。彼女は状況はより悪化したこと、すなわち買春客がより暴力的になり、警察はひどく冷淡だったと証言しています。Nordic Model Now! の許可を受けてここに訳出します。

セイラ(サラ)・スマイルズ

『ノルディックモデル・ナウ』

 「子どもの頃はどんな生活をしていたの?」という質問を受けることがある。私の口からついて出た最初の言葉は、「クソみたいにサイテー!」だった。

 私はギリシャのアテネで生まれた。生みの親は、私が生まれてすぐにニュージーランドに移住したが、私を必要としていなかった。生後6週間でパラパラウム病院から白人の両親の元へ養子に出された。なぜ実母が私を欲しがらなかったのか、あるいは里子に出されるようになった経緯もよくわからない。私が知っているのは、実母がギリシャ人で、実父がマオリ人ということだけだ。

 私はニュージーランドの北島にある都市パーマストンノースで育った。そのころの記憶はあいまいだが、4歳のときに大きな病気になったことは覚えている。はしかに感染して入院し、脳炎で昏睡状態になってしまった。昏睡中に私は死んだのだが、彼らは私を生き返らせてしまった。残念なことに、私は障害を負ってしまった。両親は、障害のためにこの子は二度と歩けないと聞かされた。

 しかし、私はその頃から負けん気が強く、5歳の誕生日を迎える前に、完全ではなかったが歩くことができるようになった。医者は私が一生車椅子の世話になるだろうと考えていたのだが、私はそれが間違っていたことを証明したのだ。もっとも、今でもなお背中に痛みを感じており、内反足〔足の後ろ側と足首が下方へ内向きになり、足の前側が内側にねじれた状態〕のまま成長したのだが。

 養父母は、私が6歳になる直前に離婚した。母は暴力的な男と同居するようになり、そいつは機会があるたびに私を殴った。この養父からは7歳から性的虐待を受け、さらに精神的な虐待も受けた。そいつは私に、おまえは役立たずで無価値だ、どうしようもないクズだとしょっちゅう言っていた。私は父の言うことを信じるようになり、やがて自分自身にも同じことを言うようになった。

 そんな私に手を焼いた父は、私を情緒障害児のための全寮制学校に送り込んだ。そこに1年ほど通った後、再び母のもとに身を寄せた。ある日、買い物に行く途中でレイプされた。結局、妊娠してしまった。私はまだティーンエイジャー〔13歳から19歳〕にもなっていなかった。男の子が生まれたが、里子に出された。

 その後の私の人生は悪くなる一方だった。少年院や里親のもとを出たり入ったりしていた。私は自分をひどく卑下しており、まるでクズのようだと思っていた。自分自身も、自分の人生も憎んでいた。自分には価値がない、役立たずだと感じていた。どうにかして人生を終わらせたいと考えていた。

 14歳のとき、私は何もかもいやになり、家出をした。ヒッチハイクをしていたら、トラックの運転手に拾われた。彼は私をオークランド〔ニュージーランド北島にある最大の都市〕まで連れて行ってくれた。これが新しい人生の始まりだと思った。トラック運転手は私を街の中心部で降ろしてくれた。しかし、寝るところもないということに気づき、とても怖くなった。公園に泊まり、ベンチで寝た。持っていたのは、枕になるリュックサックと、体を温めるジャンパーだけだった。ゴミ箱をあさって食べ、公衆トイレでできるだけ体を洗った。

 昼間に人が置いていった新聞を読むと、「女の子募集」の広告が出ていた。私は公衆電話ボックスを利用した。小銭は持っていなかったが、昔の電話の中には番号を打てばかけられるものがあった。

 電話に出た女性はとても感じがよかったので、その日のうちに会いに行った。会ってみると、彼女はとても素敵な人だった。彼女は、私ならたくさんのお金を稼げると言ってくれた。私の面倒を見てくれると。それで、その夜から開始することにした。

 その夜、6つの仕事をとれたのを覚えているが、シフトが終わる頃には血が出ていた。傷を負ったけど、お金はたくさん得られた。YMCAに部屋を借りることにした。ようやく路上生活から解放されたが、同時に悪夢のような生活を送っていた。

 2週目になると、買春男たちはどんどんひどくなり、ますます虐待的になった。彼らがお金を支払った時間の間、私は彼らの所有物だった。彼らはペニスを入れることのできるすべての穴に無理やり突っ込もうとし、嫌がると殴られた。私は売春店のオーナーに相談したが、「客の時間と金だ、がまんしろ!」と言われた。

 出血を止めるために海綿を膣内に入れなければならなかった。セックスされるたびに、ひどい痛みを感じた。カクテルドレスとヒールを履かなければならないと言われ、自分で買わなければならなかった。とても高価なものだったが、それを着ないと罰金が課せられるのだ。私の足は内側に曲がっているので、足がひどく傷んだ。毎朝、靴を脱ぐとマメがいくつもできていた。

 買春客が支払ったお金は店側がいったん全部預かってしまう。それは「まとめ払い」と呼ばれていた。それは私を守るためのものだというのだ。ベッドメイキングをきちんとして、ドレスと靴を履き、ガーターベルトとストッキングを履いて、買春男たちを怒らせることなくやりとげ、シフトの終わりになってようやくお金を渡してもらえる。しかし、要求されたことをしなかったせいで罰金を課せられた場合は、一ドルも得られずに帰ることになる。

 私は、どんな買春客であっても、追い返したり断ったりすることは許されていなかった。買春客はどいつもこいつも気持ち悪かった。自分がゴミになったように感じた。性器は傷つき、出血していても、生理中でも働かされた。私の人生は家にいるときよりもさらに最悪だと感じ、ほとんどいつも、すべてを終わらせたいと思っていた。自分の人生も終わらせたいと。私はしょっちゅう殴られ、自分はクズだと思わされた。

 オーナーの一人が私をレイプしようとしたので、そのことを彼の奥さんに話したら、私は店から追い出された。私はK通りにたどり着いた。他の女の子たちといっしょに路上に立つようになった。ピンプはいなくて、私たちだけだった。だが、そこでは、売春店よりもひどい扱いを受けた。買春客はわざとコンドームを破損させておくのだ。私が再び妊娠するのに、それほど時間はかからなかった。私は15歳だった。

 妊娠して間もなく、頭に銃を突きつけられてレイプされ、走っている車から放り出された。その後、私はストリップの世界に入った。しかし、これも少しもましなものではなかった。客やマネージャーから常にののしられていた。気持ちをまぎらわせるため、アルコールやドラッグに頼るようになった。

 しかし、服や靴、ドラッグやアルコールの費用をカバーするにはお金が足りなかったので、私は再び路上に戻った。

 酔っ払ってフォート通りを歩いていたとき、側溝に落ちた。雨が降っていて、ひどく寒かった。私は動けなくなった。お腹にものすごい痛みを感じた。通りを行く人はみんなじろじろこっちを見ていたが、そのまま通り過ぎていった。警察がやって来て、私を引き出そうとしていたこと以外、あまり覚えていない。

 アリーマリー・ダイヤモンドに出会ったのは、その時だった。彼女は、他の売春店に呼ばれた後、店に戻ろうとしていた。彼女は立ち止まり、ひざまずいて私に大丈夫かと尋ねた。私は側溝で血を流していた。私は恥ずかしくて、怖かった。自分が嫌になった。自分の人生がこここで終わってほしかった。警察が「彼女は大丈夫だ。われわれが連れて行くよ」と言ったのを覚えている。しかし、アリー=マリーはそれを断って、私を自宅に連れて行き、私をきれいにしてくれ、私を保護してくれた。その夜、私は流産した。

 私はアリーマリーのもとに滞在し、彼女が働いている店で働き始めた。私はストリッパーであり、商売女だった。そこはひどいところで、買春男たちは私が出会った中で最悪だった。文字通り私は常にレイプされていた。やりたくないことをやらされて、聞いたこともないようなこともやらされた。私はいつもクズのような、汚物のような気分にさせられた。

 私の飲酒ますます悪化し、ドラッグの方もそうだった。それらなしには生きていけないようになっていた。ほとんどいつも、私の顔はあざだらけで、ドス黒かった。化粧ではカバーできなかったが、誰も気にしなかった。断言するが、買春客たちはそれで興奮していたのだ。私はいつも悲しくて、泣いていた。惨めだった。眠ろうとすると、目を閉じるたびに、上に乗っている男たちが私をレイプしているのが見え、感じられるのだ。何度も何度も。

 それから逃れることはできなかった。常にそこにあった。結局、私はK通りにあるストリップバーにたどり着いた。そこで何年も過ごした。そこの男たちは豚のようだった。指を入れてきたり、痛くなるまでお尻をつかんできたり、乳首をもぎ取ろうとするようにつかんできたり。触らせてやらないと、この役立たず、クズ、ビッチと言われた。路上での仕事も続けていた。ポルノの撮影もしょっちゅうで、お小遣い稼ぎにアダルトショップの男に撮影してもらったりしていた。

 2000年にニュージーランドを離れ、オーストラリアに飛んだ。姉のように慕っていたアリーマリーが新しい生活を始めるためにオーストラリアに行っていて、彼女は私にもそうしてほしいと望んでいたのだ。しかし、それは簡単なことではなかった。私はニュージーランドに舞い戻り、再び路上に出るようになった。自分の知っていること、お金の稼げる場所に何度も戻った。変に聞こえるかもしれないが、普通の生活では閉じ込められているように感じ、路上では自由を感じた。

 私は娘たちをオーストラリアに残し、ニュージーランドに戻った。悲しかったが、自分の知っていることに戻る必要があった。路上の魅力は自分の娘への愛着を上回っていたのだ。それが路上の持つ力だった。

 そのころニュージーランドは変化していたが〔売買春が非犯罪化されたことを指す〕、良い方向にではなかった。むしろ悪くなっていた。買春客はいっそう暴力的になった。私は怖くて警察に行くことができなかったが、一度行ってみると、彼らは汚物を見るように私を見た。私はなおいっそう恥ずかしく感じた。路上では子どもたちも遊んでいた。その子たちを見ていると、自分の子どものことを考えるようになった。2010年についにニュージーランドから完全に離れて、オーストラリアに戻った。

 オーストラリアに戻ると、子どもたちを里親から引き取った。子どもたちは喜んでいたが、私たちは長い間会っていなかった。それは私がやらなければならなかった最も難しいことだった。

 私の人生は、今日でも私を苦しめている。今でも忘れるためにお酒を飲むが、ドラッグはやらない。私はいつもフラッシュバックに悩まされている。私はいまだに自分が無価値であると感じ、自分がしてきたことを恥じている。

 一度は結婚寸前までいったが、彼は、何かというと私がしてきたことを持ち出して、そのことで私をひどく責めた。

 自分の経験してきたことを書くのはとてもつらいが、誰にもこのような経験を(あるいはもっとひどい経験を)してほしくないのだ。

 現在の私だが、かなり良くなってきている。今でも気分が落ち込む日はあるが、14歳の息子を見ると、ようやくゲームから抜け出せたことに感謝している。性売買は、肉体的にも精神的にも私に多くのダメージを与えた。私は人間関係を維持することができず、誰も私を愛してくれないのではないかと感じている。毎日、自分がしてきたことに対して罰せられているような気がしている。

 もっとまともな養育を受けていたら、サポートを受けていたら。そうすれば、あんなことにはならなかったかもしれない。私がそこにいたとき、そこから抜け出すのを助けてくれる人がいればよかったのだが、いたのはせいぜい、ティッシュをくれたり、休憩しなさいと言ってくれたり、燃え尽きてしまったのだろうと言う女性ぐらいだった。

 私は、女性や子どもたちを助けたいと思っている。売春は生活でも仕事でもない。絶対に仕事ではない。それはお金を支払われたレイプなのだ。

出典:https://nordicmodelnow.org/testimonial/sara-smiles/

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投稿者: appjp

ポルノ・買春問題研究会(APP研)の国際情報サイトの作成と更新を担当しています。

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